アメリカでは「歴史的な戦場」として、国旗を立てようとする6人の兵士の銅像が建てられ、今なお太平洋戦争最大の激戦地として語り継がれている硫黄島。
クリント・イーストウッドが日米双方の視点から描いた「硫黄島」二部作の「硫黄島からの手紙」が話題になっているが、その日本側の指揮官・栗林忠道について、緻密な取材の上で書かれた一冊。栗林忠道が戦場から家族へ宛てて書き送った膨大な手紙や、関係者へのインタビューを通して、この類稀なる指揮官の素顔を描き出す・・・
留学経験があってアメリカの事情に詳しく、冷徹に情勢を見極める目を持っていたため大本営に疎まれ、そのために生きては還れない硫黄島へ送られたという見方もあるそうだが、“彼であったからこそなし得た極めて厳しい使命”であったことも事実だろう。
戦況が悪化する中、南洋の島々で取り残された日本軍が次々に「バンザイ突撃」によって華々しく?死んでいく中、栗林中将は玉砕を認めなかったという。そして、圧倒的に物資も兵力も劣り、生還の見込みは皆無という状況下で、アメリカ軍に「史上最悪の地獄の戦地」と言わしめた持久戦へと持ち込む。
硫黄島の陥落は、家族が暮らす本土への直接攻撃が可能になることを意味する。そのため、玉砕ではなく一刻でも長く死守すること・・“潔いが意味のない死”ではなく、飢えと乾きで幽鬼のごとく痩せさばらえながら、日本の武人として決して美しい戦い方とは言えないゲリラ戦を展開したのだ。
そして昭和二十年三月十六日、栗林中将は大本営に宛てて、血を吐くような決別電報を打つ。辞世の句を添えて。
「国のため 重きつとめを果たし得で 矢弾尽きはて 散るぞ悲しき」
決死の戦闘においては、総指揮官は陣の後方で切腹するのが当時の常識であったそうだが、10日後の払暁、栗林中将は生き残った将兵400名を率いて自ら総攻撃を仕掛けた。計画性など微塵もないバンザイ突撃ではなく、合理的な作戦として敵軍の懐へと切り込み、約3時間の戦闘でそのほとんどが戦死を遂げたという。
米海兵隊戦史『硫黄島』は、「三月二十六日早朝における日本軍の攻撃は万歳突撃ではなく、最大の混乱と破壊を狙った優秀な計画であった」と記している。
しかし、地獄の戦地硫黄島で散った二万将兵の壮絶な死を以てしても、結局本土攻撃は止めることができなかった。
そして、栗林中将の辞世は大本営によって
「国のため 重きつとめを果たし得で 矢弾尽きはて 散るぞ口惜し」
と改竄されて発表されたのだった。
『散るぞ悲しき ―硫黄島総指揮官・栗林忠道―』
梯久美子 著
新潮社 発行
ところで、“男らしさ”を粗雑とか粗暴と区別できない勘違い君がよくいるけれど、この人、よく言えば緻密、悪く言えば「細かい」人であったらしい。
連日熾烈な爆撃を受ける硫黄島のようなところにあって、留守宅の台所の隙間風を心配したり、「寒さが厳しいので(自分の)ラクダの下着を着るように」と妻を気遣ったり・・。ともすれば「女々しい」と評価されそうであるが、他人の思惑など歯牙にもかけない徹底した合理主義と細やかな神経が戦場でも生かされたのであろう。
「雑」と「豪胆」は全く別だし、「慎重」と「臆病」も全く違う。要はここぞ、という時にどれだけ腹をくくって本領を発揮できるかだろう。
・・私?・・・雑で臆病だからな・・、“愛国心”を強要されてもお役に立てません。
悪しからず・・・
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