私は毎日生き物を食べている。
ベジタリアンではないが、割と菜食に近い食生活をしている。
そりゃー、たまには餃子を食べたり、キーマカレーを作ったりするコトもあるけれど、日常的に肉類を食べなくてもべつにいい。ってーか、穀物と野菜で生きていけるし、たまに口にする肉類は加工されて原型がなくなってないと食べられない。
そんな私が、ケモノを「殺して」「食べる」ことについての本を読んだ。
第1章から引用・・・
豚の細切れ100グラム百数十円。この肉の値段に「殺し」の値段は含まれているのだろうか。含まれているなら、私は殺しを買っている。含まれていないなら、誰かが好意で私の代わりに殺している。
登山ではこだわる「自分の力」が、日頃口にする肉のなかからはすっぽり抜け落ちていた。サバイバル登山で感じた生きる実感が抜けている。食べている肉は肉ではなく命であるという真実が抜けているのだ。
『狩猟サバイバル』
服部文祥 著
みすず書房 刊
2009年11月 初版発行
2006年に読んだ『サバイバル登山家』、2008年に読んだ『サバイバル!』でもかなりのインパクトを受けたけれど・・「実体験」を綴った書としてはこれもまたインパクトがある。“マサカ、書くためにやっているのか?”という疑問はさておいて、彼がここで書き綴っていることを、私にはとてもできないし、多くの都市生活者もまたできないだろう。
批判もあるだろうことは想定の上で世に放ったと思われるこの一冊。一読の価値はあると思う。
ところで・・・
私は、動いている生き物を殺すことがものすごくこわい。ゴキブリとかですらダメだ。蚊くらいが限度だ。
昨夏、沢で釣りをしたとき(釣り師からすれば“外道”とバカにする系だろうけれど)、エサ釣りのミミズにどうしても触れなかった。「しゃーないなー」と、ハリにつけてもらって釣ったものの、今度は釣り上げた魚がびちびち暴れることに動揺して、ハリを外すことすらできなかった。
なのに、捌かれて(捌いてくれたのもほかのヒトだ)、てんぷらになった魚は美味しく食べた。
死体になった魚なら一応触れる。哺乳類や鶏でも、死体なら・・いや、死んだままだったらたぶん無理だ、誰かが捌いて精肉になっていれば、触れなくはない。けど、生きていると、小魚ですらまともに触れない。そんなヤツが、それらを食べていいのだろうか?
服部文祥さんが書いているように、捕まえて殺すというプロセスがあってはじめて生き物が食べ物になるのに。
極にゃみ的には野菜が好き。肉や魚と違って料理するにも嫌悪感はない。
・・でも、野菜も穀物も、生き物なんだよな。
摘まれて、切られて、煮られて、食われることに苦痛があるわけではないかもしれないけれど、生き物であることには間違いがない。
動物を殺せない私は、もしかするとそれを食べることはアンフェアなことかもしれない。であるならば、農作物を作る能力がない私が、それを食べることもまたアンフェアなのではないのか。
そんなことを何年か前から漠然と考えていて、それが「農」に興味を持ったきっかけなのだけれど。
「いのちの食べ方」を観たり、農業についてのリアルな示唆を含む作品を読んだりしているのは、全て同じところから始まっている。それらと、同じ目線でこの本を読んだ。
「食糧生産に関わらなければ食べる権利がない」なんてことを言い出したら、今の世の中は成立しないし、歴史的に見ても、都市というものが成立した時点ですでにその理屈は崩壊していることはわかっている。
けれど、そういう視点が完全に欠落していることもまたおかしいと思うのだ。
もう少し本書から引用してみよう。
認識力が高く、複雑な社会を作りえているからといって、人間がえらいわけではない。山に入ればそんな当たり前のことがよくわかる。生きて存在しているという意味においては命になんの変わりもない。私も、他の動物も自分の生を必死に生きる、それだけだ。必死に生きるさきで、ある生命が別の生命と交差して片方がもう片方の食料になることがある。だが喰う側が強いとか、えらいということはない。種としての生きる戦略が違うだけだ。
(第5章 狩猟サバイバル山行記 より)
こいつはもう逃げられないという思いと、こいつはもう助からないという思いが同時に頭に溢れてきた。
鹿は目をむいて私のほうをうかがっていた。私から1センチでも遠くに行きたそうにもがいている。息の根を止めなくてはならないし、止めてやらなくてはならない。鹿の首の根元に銃口を向けた。首の骨を撃ち砕いて、鹿の苦痛も、私の迷いも終わりにしなくてはならない。 (中略)
撃つことじゃない、と私は思った。私がやるべきことは撃つことではない。ここで安易な方法を選ぶわけにはいかないのだ。 (中略)
鹿の目にはハッキリとした恐怖が浮かんでいた。もしくは嫌悪といってもいいかもしれない。とにかく、私が近くにいる事態を何とかしたいという思いを体中から発していた。
私は覆い被さるようにして、左手で鹿の左角をつかんだ。そのまま鹿の頭を地面に押さえつけ、手をクロスさせて、鹿の咽にナイフをあてて、そのまま力を加えた。(後略)
(第1章 巻狩り より)
| 固定リンク
コメント
僕はにゃみ姐さんもご存知の通り、生物の命を絶つことを生業にしています。
そんな僕も山に登ると「人間は本当に弱い生物だ」と実感します。まぁ中には強い人も居るかも知れませんが。
だから人間は群を作り、役割を分担してコミュニティを作る。そうやって種を保存する「社会性動物」なんですよね。
多少複雑かも知れませんが、結局ハチやアリと同じです。
>種としての生きる戦略
だから、自分は自分の役割を果たしてコミュニティの一部として機能すれば良いのではないかと思います。
たまたま、文章を書いたり、生き物を殺したりするのが役割なだけで、精肉したり捌いたりする役割ではないと言うだけのことじゃないでしょうか。
投稿: 銀杏 | 2010年2月17日 (水) 12:12
まいど・・
群れを作る必要性も、そしてそこでの役割分担の必要性も、一応はわかってるんだけどね、
やっぱり、「無自覚」でいるのはよくないと思うんだよね。
食べ物を平気で捨てる個人の感覚、
捨てなきゃいけない社会システム、
どっちもおかしい。
かつて宗教などが教えてきたことが、今は伝承されずに、食べるという行為が軽んじられてしまっている現状・・・。
某FC本部さんにいたとき、OLさんたちがランチを平気で食べ残して捨てるのにすごく違和感を覚えてた。
彼女たちって、生命体としてはものすごく弱っちい存在だと思うんだよね。人工的なシェルターから出て生きていけるようには見えないし。
なのに、何の苦労もなく、好きな食べ物を好きなだけ手に入れることができる。
そして「美味しくない」とか「もう食べられない」と言って平気で捨てる。
あんなにすばらしい理念を毎日教えられながら暮らしているはずのひとたちがなぜ・・・・って。
あの違和感から、さらに「食」ってものを考えるようになったような気がする。
そういう意味ではやっぱり感謝すべきなんだろうね。あのヒトたちに・・
投稿: にゃみにゃみ。 | 2010年2月17日 (水) 12:44