『41歳からの哲学』
すんません。アラフォーってワケではとっくにないんだが、友人に貸してもらった本を読んだ。著者は1960年生まれだから私の1つ年上、でも46歳で亡くなられたので、もう私の方がずっと年上。
学生時代に『JJ』のモデルをしていたという慶応大出の“美女”だが、その文体はワリと男らしい(?)。極にゃみ的には、小学校の頃「テツガク」なるものに憧れて、図書室の「1」の本棚をあさり、数ヶ月以内に挫折したとゆー暗い過去を持っている。以後、哲学書はほとんど読んでいないのだが、この人の文章はとても抵抗なく読める。一見シニカルだけど、とても素直。世間の多くのひとが「刷り込み」とか「ジョーシキとゆー名の根拠のない思い込み」に囚われていたりするものだけれど、彼女はそーゆーものから自由であるように見える(私も割と因習フリー)。
んで、本書。各章のタイトルからしてワクワクする。
「平和な時でも人は死ぬ」「いったい人は、何のために何をしているのか」「考えることに終わりはない」「なぜ人を殺してはいけないのか」「信じなくても救われる」 ・・・ああ、面白かった。久々にイッキ読みする本をありがと。
『41歳からの哲学』
池田晶子 著
2004年7月 初版第1刷 発行
帯に曰く、「考えることに、手遅れはない。」
そうやね、人生においてナニにも手遅れはないと思いたい。努力を放棄しない限り。
以下、少々抜粋してみんとて。
死ぬという経験は、人生で一度しかできないのだから、よく考えてからでないと、もったいない。(←ですよ。須原さん・・・)
よく考えると、命というものhな、自分のものでないどころか、誰が創ったのかもわからない、恐ろしく不思議なものである。言わば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。ひょっとしたら、自分というのは、単に生まれてから死ぬまでのことではないのかもしれない。
自分を越えたものを認めるということは、本当に大事なことである。それのみが、我々の人生を豊かにする。認めるためには、特別な修業も勉強も要らない。万物が存在していることの不思議に、気がつくだけでいいのである。
「神秘体験」とは何のことを言うのか、改めて考えてみると、私はよくわからなくなる。普通には、空を飛んだりオバケを見たり、何がしか日常的でない体験のことを言うらしい。だからそれを「超常現象」と言ってみたりもする。
しかし、超常を超常と言うためには、超常でない常なること、当たり前のことの何であるかを知るほうが、順序としては先である。・・・(中略)・・・
私には、この当たり前のことの何であるのか、さっぱりわからない。いったい何だって、世界なんてものが在って、自分なんてものがあるのか。生きて死ぬとはどういうことで、なんで宇宙はこうなのか、考えるほどに、いや考えなくたって、これはもう最初からさっぱりわからないのである。
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コメント
タイトルを見て『バカボン』のパパを連想したのは、僕だけでは無いはずっ!
( ̄◇ ̄)
投稿: 銀杏 | 2010年3月 5日 (金) 08:04
ううーん、そっかー。
バカボンのパパは永遠の41歳ね。
池田ワールド、奥が深い・・(?)
んんんっ? 銀杏クン・・
もしかしてバカボンのパパの年?
投稿: にゃみにゃみ。 | 2010年3月 5日 (金) 08:18