“日本茶”を訪ねて・・
先日、宇治と栂尾高山寺へ茶に関する取材に行った。
鎌倉時代に栄西禅師が中国から茶の種を持ち帰り、高山寺の明恵上人に譲り渡して栽培を始めたのが日本における本格的な茶作りのはじまりと言われている(最澄や空海も持ち帰ってはいたらしいのだが、定着はしなかった)。洛北の冷涼な気候が適していたのか、栂ノ尾の茶を「本茶」、それ以外は「非茶」とまで言われた時代があったとか。
その後需要が増える中で生産地は広まっていくが、室町時代以降の歴代将軍が宇治茶を好んだことや、立地の関係から生産の中心地は宇治へと移行する。今日本茶の主流は煎茶だが、宇治では元々碾茶(抹茶の原料)が主で、新芽が出る頃に日光をさえぎる覆下栽培が行われている。遮光すると渋味成分であるカテキンの生成が抑えられ、甘味のあるテアニンが多くなるそうだ。
しかし、植物であるチャにとっては成長期に充分に日光が与えられないということはダメージが大きいため、その年その年の気候条件を見極め、いつ被覆するのか、いつ外すのかといった判断がむずかしいらしい。春に芽吹いた一番芽は、八十八夜の頃に摘み頃となり、新茶が作られる。ほかの産地では二番、三番と摘むそうだが、宇治の高級茶園では1番茶しか摘まないとか。
ところで今、抹茶と言えば粉状のものだが、かつては茶事に際して亭主が石臼で碾茶を挽くのが普通だったらしい。石臼を使うと茶葉の繊維をひきちぎるような状態で粉になるため、あの独特の舌触りになるとか。鋭利なカッターで粉砕するフードプロセッサではあの味は出せないそうだ。
元々宇治は将軍家や大名家などのための茶園であり、生産していたのは最高品質の碾茶。新茶ができると、江戸まで毎年送り届けていた。
この茶壷を運ぶのが「御茶壷道中」と言われるもので、大名行列並みの格式が与えられ、庶民は行列を見ることもできなかったという。そこで生まれたのがあの「ずいずいずっころばし・・」の歌。
運搬の際、紙袋に詰めた濃茶用の碾茶を壷に納め、保護と断熱のために「詰め」と呼ばれる茶葉で満たした。この「詰め」を挽いたものが「薄茶」なのだとか。知らなかったなー。
もうすぐ新茶を摘む「八十八夜」。この天候不順でお茶の新芽が凍ってなければいいけど。
オマケ。
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