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『くう・ねる・のぐそ』

糞土師(ふんどし)として、連続野糞記録3000日、Photoのべ1万回以上の大記録を樹立した菌類写真家・伊沢正名氏。「食べることばかり関心をもち、排泄物には興味を持たない、表層的エコロジーブームへの強烈なアンチテーゼ」として、ライフワークとして野糞をし続けるその動機、抱腹絶倒・試練満載の野糞録、そして“その後の経過観察”…巻末には“袋とじ”までついている、なんともユニークな一冊。

『くう・ねる・のぐそ 自然に「愛」のお返しを』
井沢 正名 著
2008年12月 初版発行
山と渓谷社 刊

野糞に関する理念もさることながら、本書には随所に示唆に満ちた言葉がひりだされているちりばめられている。

以下に少々抜粋。

■毒蛇やハチなどの危険な生物との遭遇に関して P 50
 言うまでもなく、これらの生きものたちの生息域に入るときは、充分な注意が必要だ。そして最も大切なことは、野糞をさせてもらいに林に入るのだから、たとえ被害に遭ったとしても、不注意だった自分が全責任を負わねばならない。まかり間違っても「有害獣駆除」などという本末転倒の愚かな行為に走ってはならない。「自己責任」とは他人に押し付ける言葉ではなく、己を律するための崇高な理念のはずだ。

コレ、そのまま「登山」にあてはめても通用しますな。

■ウンコ持ち帰りについて P 90
 山のトイレ問題が持ち上がって以来、ウンコ持ち帰り運動がはじまり、そのための携帯トイレもいろいろ開発されているようだ。私も山の黄害防止には大賛成だが、はたしてこれでよいのかという疑問をずっと感じている。それは持ち帰りという行為そのものよりも、ウンコを入れる容器が新たな資源の無駄使いや、ゴミの増加につながるのではないか、という心配だ。

今は亡きRデンスのS氏ともかつて野糞の話をしたことがある。彼は山中で野糞をするのは当たり前で、分解できないほど人が集中することに問題があるという考えだった。いろんな意味で非常に見識の高いすごいクライマーだったんだけどな・・・

■野糞に関して、必ず受ける質問や反論について P238
 「都市部の地面は森林土壌とちがって、生物相が貧弱だ。そんなところで野糞をしたら、ウンコはきちんと分解されないのではないか」。また、「現代人は食べ物といっしょに、保存料などのさまざまな食品添加物、つまり自然にはない化学物質も摂り込んでいる。そのような汚染物質まみれのウンコを林にばらまいては、環境破壊にならないのか」。
 なるほど、いかにももっともな疑問だ。しかしちょっと待ってほしい。そもそもウンコは分解してもらうような「お荷物」ではなく、動物・植物・菌類を問わず、土壌生物にとってはご馳走だが、都会では落葉でさえもゴミとみなされ、すぐに撤去されてしまう。そのため土は痩せこけているが、だからといって土壌生物がいないわけではない。むしろ貧相な都会の土にこそ、ウンコはありがたい贈り物になるのではないか。もちろん撤去されないように、きちんと埋めなければならないが。
 また、食べ物に含まれる添加物だが、それらにヒトを簡単に殺すほどの強い毒性はないし、もしあったとしてもごく微量だ。それに、野糞ではなくトイレにウンコをしたとしても、それらの汚染物質はなくなるわけでもないし、いずれは自然界に放出される。しかもトイレのウンコは一ヶ所に大量に集められるため、毒性は増し、かえって分解しにくくなるだろう。

■みんなで野糞をはじめたら? P244
 もしとつぜん私の熱意が通じ、日本人全員が野糞に目覚めたら・・・・・・。ありえないことだとは思うが、この人口密度が高い日本で、みんなが毎日野糞をすることが可能かどうか、ひとつ糞真面目に検討してみよう。
 野糞はきちんと土に埋めれば、夏場なら二~三ヶ月ですっかり分解され、豊かな土を作り、無機養分は順調に植物に吸収されることになることが、掘り返し調査で確認できた。寒い冬こそ分解は滞るものの、暖かくなればそれは一気に進み、たとえ寒冷な地方でも一年という単位で見れば問題はない。
 自然界では「一年」というのは非常に大きな意味を持っている。一年ごとに誕生と死を繰り返す生物にかぎらず、すべての生きものは一年というサイクルの中で、季節に適応し、変化しながら生活している。(中略)
 もし日本人全員が毎日野糞をするとして、いったいどれくらいの林や原野が必要になるだろうか。1回の野糞に必要な面積は、直径20センチほどの穴と、それをまたいで両足を置く部分を加え、50センチ四方くらいと考えればいいだろう。(中略)
 日本の総人口一億二千万人がすべて野糞をするには、一億二千万アール(中略)つまり110キロ四方の林があればよいことになる。これは日本の森林面積のわずか20分の1にすぎない。(中略)
 現在の日本社会では人間関係が急速に薄れ、さながら「隣は何する人ぞ」の世界になってしまった。しかしトイレのない町では、みんなの森でみんなが野糞をして尻合いになり、それぞれのウンコが協同して森を育てていくのだ。(後略)


★井沢センセの「糞土研究会」公式サイト・・・ノグソフィア

ツイッターで反応したら、うんこ君がわざわざ送ってくれたんだよね。うんこ君ありがとー。

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コメント

野糞の話
いつもですけど。。焼酎3杯です
arutuは正直我慢できなくなったらどこでもします。北アルプスなどのメジャーな山には行かないので
わからないけど昨年の夏に白山に行ってトイレが有料でした。秋の白山でもそうでした。なんで?疑問に思いながら使用料を払いました。
なんで山だけなのかな?大きな観光地でも汚水処理に多大な税金がかかっているのにで、すね。
なんか趣旨がずれていくようなので、もう一度にゃみさんのブログを見てみました。言いたいことはSさんと同じで、要は山の経験豊かなかたはメジャーな山には近寄らないで自分たちの山を楽しめばいいのでは。。です。
ほとんど人が入らない山なら大糞しても大自然にはまったく問題ないですから。。。

投稿: arutu | 2011年1月 7日 (金) 21:41

じつは私もあんまりこだわりなく“やっちゃい”ます。

北アルプスとか、森林限界超えたところはちとまずいでしょうが、そもそもそんなところでは逆に隠れるところもないので現実的に無理ですしね。

森が隠してくれるところなら、
もちろん人が過密に訪れるメジャーなところではない、という前提ですが、
著者が実践しているような一定のお作法を守ればいいのではないかと思っています。

ただ、著者が言いたいのは「いい悪い」ではなくて、食物連鎖のリンクから外れてる人類っておかしいでしょ、ってコトなんですよね。

私もじつは以前からそのこと=ミッシングリンクについては気になっていて、ただ「死体を焼くのはどうかね?」って方で、、、
ココ↓↓↓
http://nyami-nyami.cocolog-nifty.com/gokunyami/2006/07/post_4472.html

排泄物には思いが及んでいなかったんです。
また考えることが増えたなー。

投稿: にゃみにゃみ。 | 2011年1月 7日 (金) 22:04

その道の「権威」としては参戦せざるをえんじゃろ。

一般的に、「日常糞」と「野糞」の違いは、ふたつあり、事後その行く末を考えるか、考えないか。と、もうひとつは離れ際に腰を浮かすか、浮かさないか。なのです。
双方を比較すると、はるかに後者のほうが哲学的だと思うのです。

いずれにしてもその個体に思いをはせることが出来る人はある意味、文明的ではあると思うのですがどうでしょう。
お久しぶりでございます。

投稿: hori | 2011年1月 7日 (金) 22:27

その道の「権威」さま、どーも、です。

>「日常糞」と「野糞」の違いは、ふたつあり、事後その行く末を考えるか、考えないか。と、もうひとつは離れ際に腰を浮かすか、浮かさないか。なのです。

そ、そうかもっ。
ふ、深いですねっ。

>いずれにしてもその個体に思いをはせることが出来る人はある意味、文明的ではあると思うのですがどうでしょう。

ですね、ですよ。
あちこちにしましたけど、愛情を持って・・・

投稿: にゃみにゃみ。 | 2011年1月 7日 (金) 22:42

訂正・・・
行く末を考えないか、考えるか。浮かさないか、浮かすか。の双方、後者が哲学的と言いたかったのに・・・

焼酎3杯半。ぐすん・・・

投稿: hori | 2011年1月 7日 (金) 23:02

たしかに、トイレでウンコをしながら
「これはこの後どうなるのであろうか?」とか考えてる人ってほとんどいなさそうだけど、のぐその場合はやっぱり考えながらしてますよねー。
足元の虫とか土壌生物をじっと見たりとかしながら・・

いろいろな意味で哲学的なのは確かです。

昨夜は少々飲みすぎて撃沈しておりました。

投稿: にゃみにゃみ。 | 2011年1月 8日 (土) 06:56

確か昭和63年頃に日産セフィーロのキャッチコピーで井上陽水さんがコマーシャルに出ていた「くう・ねる・あそぶ」を思い出しましたよ。今年もよろしくお願いします!

投稿: Kず | 2011年1月 8日 (土) 16:21

Kずさん、
今年もよろしくお願いします。

そうそう、あの名コピーのパロディですよね、きっと。

陽水さんも、まさかくう・ねる、のあとに
のぐそ・・・とくるとは思ってなかったでしょうね。

タイトルも絶妙ー。

投稿: にゃみにゃみ。 | 2011年1月 8日 (土) 19:36

コメントをさせていただくといいつつ・・・遅くなってしまってスミマセン
Sさんの世界は(みーはーな)僕には到底想像もつかないような代物だったけど、時折岩の表面の結晶がキラッと僕の目にうつるかのごとく、はっとさせられることがありました。Sさんの「のぐそ話」はSさんと僕との小さな接点が蘇ってなんだか暖かい気持ちになることができました。せやけど、あのおっちゃんこーゆーネタすっきゃった。。。ですよね。
のぐそは、全く外部のエネルギーをつかわない素晴らしい行為である!(といいつつ、私はちり紙はつかってしまいますが)と確信する今日この頃。
特に都会の生活者が現在享受している利便性は、めちゃめちゃ怪しいものの上に成り立っている、殆ど幻想に近いものとちゃうの?とまで思えてきますが、のぐそはそのあらゆる利便性の原点回帰のようなことを考えるのには、素晴らしいアイテムだなぁと思います。

投稿: うんこ | 2011年3月28日 (月) 12:03

うんこくん、お久しぶり~。

アノ方、ホントにコノ系のお話、お好きでしたよねー(笑)
参戦してくださったら面白かったのに…シモネタにも哲学があった…


>都会の生活者が現在享受している利便性は、めちゃめちゃ怪しいものの上に成り立っている、殆ど幻想に近いものとちゃうの?とまで思えてきますが、

ホントそうです。
めっちゃ怪しいもの、どころか超キケンなものの上に成り立っていたことが、図らずも露呈して、
誰のせい、とかナニが悪かったのか、とかそーゆー個別の話ではなくて、一般人にのぐそができない社会環境がすでに人間にとっては間違っていたんではないのか・・・と思っています。

投稿: にゃみにゃみ。 | 2011年3月29日 (火) 07:14

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