『怒らないこと』
「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」日本サンガ長老であるAlubomulle Sumanasara氏による「初期仏教法話」。人間は「愛情」と「怒り」の2種の感情を持っているが、「怒り」という感情は自分を苦しめるだけでなく、周囲をも不幸にする「幸福の仇敵」であり、排除すべきもの。すべては心の持ちようであり、何事も拒絶せずに“受け入れ”ること、生きがいなどにこだわることなく楽しむこと・・といった内容が平易なタッチ(ちと日本語困難系)で説かれている。
花を見て「美しい」と思うのも、ゴキブリを見て「醜い」と思うのも、自分自身の受け止め方の問題。ゴキブリを捕食する生き物から見れば「美味しそう」なものだし、日本人が“高級料理”と思っている活け造りなどは食文化が違う人が見ればグロテスクなだけ。
エゴを捨てる、こだわらない。
香山リカさんの『しがみつかない生き方』に書かれていたことを思い出した。結局、こだわりすぎるからタイヘンなんだよな。
『 怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉』
Alubomulle Sumanasara(アルボムッレ スマナサーラ) 著
サンガ新書003
2006年8月 初版発行
ところで、
最近、極にゃみ的にはあまり怒るということがなくなってきて、トシの功とゆーか、人間丸くなってきたなぁと思っていたんだけど、この本に指摘されてしまった。
「怒る原因がないときは誰でも立派」・・・・そ、そう言われてみれば、そうかも。
けど、
若い頃は「売られたケンカはきっちり買う」ことを信条にしてたけど、いつしか他人と争うことが“面倒”になってきた。言い争っても何も生まれないし、相手を言い負かしたところでむなしいだけ。かつてDVもどきに遭ったこともあるけど、自分が相手を怒らせていたんだと思う。・・ってことが自覚できるようになったってことは少しは成長しているのかも。
どんなときも平常心・・ってなかなか難しいとは思うけど。
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コメント
エゴと言うか欲と言うか・・・
“こうじゃなきゃダメ”みたいな部分にとらわれすぎるとしんどいですよね。
自分の価値観だけが「正しくて」、
他人の価値観を認めようとしないところから、
争いとか軋轢とかが生まれるような気がします。
でも、自分とか自分と価値観が似ている人しか認めない、というか、
自分と価値観や世界が違う人を排除したり、攻撃したりする人って、結局自分の世界を狭めてるんですよね。
“違う系列”の人を素直に受け入れたり、異種の人とコミュニケーションしたりすることってとても大切だなって思います。
子どもの場合は、「しつけ」は必要なので、親としては線引きが難しいですよね。
「怒らず」「叱れ」と言われますが、なかなかねー。難しいのはよくわかります。
でも、子どもはちゃんとわかってますよー、母の愛。
投稿: にゃみにゃみ。 | 2011年4月 3日 (日) 19:03
怒らないって難しい。意外に私は相手を怒らせる事はあっても自分は怒らないほうなんですが
昨年は、怒らなくてはいけないのか?と悩みました。
とはいえ今は怒ってばかりなのは生活がある程度みたされているから、わがままがでてきるのか、、、
エゴを捨てる、こだわらない。
香山リカさんの『しがみつかない生き方』をよみましたが
自分に欲があるからつかれるんでしょうね
今はボーイを怒ってばかり、しかも大激怒してしまってときどきお風呂にはいってるときとか、寝顔に涙ながらにあやまったりしているダメなママです。
投稿: yukienglish | 2011年4月 3日 (日) 10:27
そう、ホントに、君のおかげでたくさんの人々が“豊か”で“ラク”な生活を、当たり前のように享受してきた。
それはあまりに当たり前な日常になっていたので、誰もみな“感謝”を忘れてるけど・・・・
今、暴走をはじめて“アンタッチャブル”になってしまった君。
昔から日本では、恵みをもたらすものと、手をつけられない恐ろしいものの両方を「神」として祀ることで制御しようとしてきたけど・・・。
この、荒ぶる神が生贄を欲することなく鎮まりますように。祈ります。
投稿: にゃみにゃみ。 | 2011年4月 1日 (金) 07:15
原発クンの慟哭…
悲しいんだよね、
一生懸命人間のために働いてきたのに。
もっと光をエネルギーを!と囃し立てられ、
本当に一生懸命に昼夜を問わず働き続けた…
今度の事故だってぼくのせいじゃあないのにさ
今は、よってたかって皆、僕のこと悪魔のように扱う。
僕は良かれと思って必死で働いていただけなのに…
今は皆に憎まれて…悲しくてしょうがない。
(君は本当に私達のために頑張ってくれたよね。
オール電化の便利な生活も、座して一瞬に世界の情報が
得られるネット依存の生活も全て君たちのお陰だよ。
あの融けるように壊れた君たちの姿…けして忘れない。
心に留め置くからね。)
投稿: オバカッチョ | 2011年4月 1日 (金) 01:21
horiさん、
>決して、「送る」気持ちをやめてはいけないと思う。
ですよね。そして、
>「受け取る側への心配り」
が大事だってこともわかります。
できることをまずやる。
できることがないのなら、せめて“祈る”
わずか100円の募金でも、しょぼい祈りでも、なんでもいいから心を届けましょう。
“負のパワー”にならないことを配慮しながら・・・
投稿: にゃみにゃみ。 | 2011年3月31日 (木) 22:38
ごめん。horiでした。・・・
投稿: | 2011年3月31日 (木) 22:20
真摯な祈りには、人を救うパワーはありますとも・・
でも受け取る側が「力」として受け入れるかどうかは
その時、そのときの状況によるから・・
決して、「送る」気持ちをやめてはいけないと思う。
でも、今、そのパワーが「負」の力にならないような
「受け取る側への心配り」が大事かなと・・・
投稿: | 2011年3月31日 (木) 22:19
なんだかねー、この本を読んでると、
全然関係ないんだけど、
原発事故を連想してしまうんですよ。
高村薫さんは原子力を「神の火」と呼んだけれど、
人間ごときが扱うべきでない存在を
安易にいじったから、
何かが怒っているのでは・・・と。
>人の「負」の思いはカタチになる場合がある…
というようなことを漠然と感じながら、
まどろっこしい報道に暗澹としながら、
でも、
負の思いは悪いカタチに凝結して、人に災厄をもたらすものかもしれないけれど、
今たいへんな状況にある方々を思って祈る人々のプラスの念は、きっと良いカタチになって届くのではないかと・・・
これまた非科学的な思考ではあるけれど、願ってみたりするのです。
怒りに人を苦しめるパワーがあるのなら、
真摯な祈りに人を救うパワーがあってもいいのではないかと。。。
投稿: にゃみにゃみ。 | 2011年3月31日 (木) 17:08
>「怒り」という感情は自分を苦しめるだけでなく、
周囲をも不幸にする…
世の中が「怒り」を挑発するような流れになってるからね~
個々の努力が焼け石に水!状態ってことになってる。
人の「負」の思いはカタチになる場合がある…
うん、これは事実。
言葉の使い方も…大切。
これは使い方で「正」のエネルギーになる場合がある。
投稿: オバカッチョ | 2011年3月31日 (木) 16:48