「いのちを慈しむ~原発を選ばないという生き方~」
福井県にある曹洞宗大本山永平寺で修行僧を指導する僧らからなる寺内組織「禅を学ぶ会」が主催したシンポジウムに参加した。
会場は「永平寺緑の森ふれあいセンター」。
全国から多くの人がかけつけ、参加者約400名。
開会に先立ち、舞台中央に祀られた楊柳観音(掛け軸)に読経。
そして、冒頭に「禅を学ぶ会」の松原徹心氏のお話。
要約すると、「正しい判断を下すためには、静かに事態を見つめることが大切」、「釈尊の教え“万物は共生”、人間だけが生きているのではない。そして憎しみの先には何もない、生かされていることに感謝することから知恵が生まれる」というような内容。
パネラーは福島県飯館村の元・酪農家長谷川健一氏と、長年に渡って原発に反対し続けている小浜市・明通寺の中島哲演住職。
“日本一美しい村”に認定され、豊かな自然環境にあった飯館村で酪農に取り組んできた長谷川氏が震災後に経験された事実は、あまりにも重い。
原発事故直後、高い線量が計測されたにも拘らず行政は「住民に知らせるな」と口止めをした。そればかりか、“エライ学者センセイ”を呼んで「安全・安心」と言わせ、住民を避難させようとはしなかった。3月末に京都大学の今中教授が来て調査したところ、「人が住んでいることが信じられない」というような結果が出たが、調査結果は公表できなかった。
そして、東京都が2000人規模で避難民の受け入れを表明したが、県は断った。etc.
35年かけて積み上げてきた酪農の仕事はできなくなり、家族同様に大切に育ててきた牛を断腸の思いで処分。知人の酪農家は「原発さえなければ」という書き置きを残して首をつり、102歳の老人は「避難の足手まといになりたくない」と自殺。
「放棄されて餓死した牛の死体を、やはり放棄された豚が食って命をつないでいる。それが今の飯舘村の現状」。
国は「除染する」と言っているが、家の周りに2年、田んぼに5年、近隣の山で20年かかるという。村の面積の75%を占める山林にはほとんど手をつけることすらできないため、3300億円をかけて除染しても、雨が降れば奥山から放射性物質が流れ込んでくる。農業の再開はムリだし、若い人は住めない。現実的に元通りの美しい村を取り戻すことはもうできない。大切な故郷がそんなことになってしまった人の思いって…
日本でも有数の“原発立地県”である福井・若狭地域にある明通寺住職の中島氏は、釈尊の言葉を引いて、「強大なものが弱小なものへの差別と犠牲の上に反映している現在の構造を転換し、各々の幸福・安泰・安楽がはかられるべき」と語った。巨大な危険性をはらんだ原発は、放射能にまみれた目先の札束と引き換えに「すでに生まれたもの」の生命と良心を切り売りさせ、「これから生まれようと欲するもの」の生命をゆがめ、幸福を奪ってやまない存在。40年間に47万人を越える被爆労働者を使い捨てにしてきた原発の“罪”を指摘し、「エネルギーを浪費しつづける社会のしくみを改めることから」と説いた。
会場には全国からかけつけた僧侶の姿も多かったが、主催者は「仏教は自ら考え、答えを出すもの。“運動”ではない」とし、開会に先立っての法要も、最後に釈尊の「慈経」を唱和した際にも、「各々の信仰にさしさわりがなければ共に合掌を」といった配慮があったのが好感が持てた。
【参考】
★仏教界にも広がる「脱」の動き 福井・永平寺でシンポジウム
★もんじゅの名、許されるのか 永平寺の僧が原発シンポ
『慈経』から一部を転載する。
一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安泰であれ、安楽であれ。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも悉く、
長いものでも、大なるものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細または粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに或いは近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは幸福であれ。
何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母がその独り子を身命を賭しても護るように、
そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、
無量の(慈しみ)こころを起こすべし。
また全世界に対しても無量の慈しみの意を起こすべし。
原発の是非についてはいろいろな意見があって、止めれば経済が停滞して自殺者が増えるとか、生活基盤が脅かされるという不安を持つ人もいるが、これほどの危険性をはらんでいて、なおかつ処分方法がない核廃棄物がどんどん生成されている現状を考えると、原発にはNo!と言わざるを得ない。容認することはつまり、自分(現在生きている人間たち)だけがよければいい、という考え方にほかならないと思う。
原発の安全神話は福島第一原発の事故で完全に崩壊した。
いまだに、まことしやかに語られる「必要神話」もまた、信用できないものとなっている。
「便利で豊か」なことは大切かもしれないが、本当にどこまで便利でなければならないのか、どこまで豊かさを求めるべきなのかを考え直す必要はあると思う。
ところで、
敦賀市の高速増殖炉「もんじゅ」(故障停止中)と新型転換炉「ふげん」(廃炉作業中)。
1970年に動燃(動力炉・核燃料開発事業団=現/日本原子力研究開発機構)の理事長(当時)清成迪氏が、釈迦如来の脇侍、文殊菩薩・普賢菩薩(知性と実践を象徴)にあやかって命名したそうである。
その際、永平寺を訪れて名づけについて報告したという経緯があるが、寺内組織「禅を学ぶ会」の西田正法事務局長は「文殊菩薩の智慧は仏教の智慧であり、科学知識とは違う。許される名前ではなかった。仏教者として菩薩と世間におわびしたい思いから、シンポジウムを企画した」とのこと。
永平寺としては「原発賛成でも反対でもない」(実行委員長の松原徹心・副監院)という立場をとっているが、「必要悪として存在する原発の裏には欲望を野放しにした生き方があり、それを見直した方がいいのではないかという問題提起」(西田正浩・布教部長)。
原発を稼動させることによって生成される放射性廃棄物の処理方法が全く確立されていない現在、半減期2万4千年ものプルトニウム239は子孫の世代に莫大な“負の遺産”として引き継がれていく。安全に貯蔵管理する方法すら確立されていない現状でそれを容認することは、「自分たちさえよければいい」という考え方にほかならない。
ひとたび事故を起こせば、日本のみならず地球規模での汚染につながることは今回の福島第一原発の事故でよくわかった。
日本の国土の半分が汚染され、20年後、30年後にどれだけの人々が病み苦しむことになるのかを考えると慄然とせざるを得ない。
それなのに、この現状をあまりも軽く見ている人のなんと多いことか。
被災地の復興支援も大事なことだし、継続的に取り組まなければいけないことだと思うが、原発事故は今まさに“現在進行形”。これに対して何ができるのか。
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