『震災後 こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか』
震災発生3ヵ月後に連載を開始、リアルタイムに書かれた異色作品。緻密なストーリーテラーというイメージがある著者だが、そういう特殊な書かれ方をしたせいか、物語としていつものキレが感じられないのはやむをえないのかもしれない。それより、小説ではなく小説の手法で表現した福井流の解説と主張?なのではという感じを受けた。
主人公は、企業のエコ担当として働く平凡な会社員である野田。大多数の特別な主張もなく茫洋と事態を眺めているだけの国民の象徴として描かれているように思える。彼の怜悧な妻は“男性原理”で何かを見失いがちな存在に対する反勢力の象徴?そして、原発事故によって“明るい未来”を奪われた子どもたちの象徴としての息子、常に冷静で大局的に事態を把握している“父性”の象徴としての父。
そんな登場人物たちの口を借りて、原発事故を巡って混迷する状況を語り、主張すべきことをきれいにまとめたという感じを受ける。
『震災後 こんな時だけど、そろそろ未来の話をしようか』
福井晴敏 著
小学館 刊
2011年11月5日 初版発行
(『週刊ポスト』2011年6月17日号~11月11日号に掲載したものに加筆訂正)
★著者インタビュー ※月刊「新刊展望」2011年12月号より
少々抜粋しておく。
P73
震災から一ヶ月、総理が記者会見をするその日に原発事故の評価がレベル7に引き上げられ、復興に向けたスピーチが空回りした経緯もお笑い種だ。隠せもしないことを隠そうとして、その場しのぎに終始するからそういうツケを支払わされることになる。国民はもう政府を信用していない。自分の身は自分で守るしかないと悲壮な決意を固めている。風評被害の拡大も、根底にある政府への不信がさせることだろう。
P114
「いまも原発論争を見とると、六十年代の日米安保闘争を思い出すよ。あの時も大騒ぎだった。若者の多くは反戦を訴え、日米安保締結は戦争への入口だとして学生運動を展開。対して大人たちは、アメリカの核の傘の下で経済成長を続けるのが国家百年の計だと言い、学生たちを排撃した。結果は知っての通りだが、その時に生じた反権力の芽はいまも亡霊のように回遊しとる。成田闘争を経て、冷戦終結後は性差別やら教育改革やらの市民運動へ。いまの反原発運動もそれと無関係ではあるまいな」
「プロ市民ってやつ?そういうのもいるだろうけど、原発のことはもっと普通にみんなが気にしてることだろ」
(中略)
「(略)脱原発という言葉に同種の無力感が漂うのは、そこへ至る行程が明確でないからだろう。休耕田を利用したメガソーラー計画やら、一千万戸の家庭に太陽光発電設備を取り付ける計画やら、代替えの方法はいろいろ考えられてはいる。だが跳ね上がる電気代のコスト、結果として起こりうる産業の空洞化に対して、どうするのかという答えは提示されていない。そんなことは起こらない、原発の発電コストが安いというのは推進派の嘘だ、というのが反対派の見解だからな。端から噛み合っていないのでは、前向きな議論などできようはずもない。そんなところもかつての安保論争とそっくりだ。
量産すれば太陽光発電のコストも下がろうし、スマートグリッドの整備でいまより効率のよい送発電も可能になるだろう。問題は、そうなるまでの空白期間をどうしのぐか。これが提示されない限り、産業界は首を縦に振らない。そこから生活の糧を得ている大多数の国民もそうだ。(略)」
(中略)
「脱原発を、反戦と同じ棚に置いてはいかん」
苦しげな息でも、その語気と視線には肌を粟立たせる鋭さがあった。気圧された野田の視線を捉えたまま、父は浮き出た汗を拭って居住まいを正した。
「この地震大国で、原発を運用するのはリスクが大きすぎる。今回の震災で得た、それが最大の教訓だとわしは思う。だが、だからと言って感情的に脱原発を唱えれば、安保闘争の二の舞になる。感情では現実に勝てん。現実を動かすのは意志の力だ。強い意志こそが未来を引き寄せ、この国に巣くった“闇”を払う」
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