『現代霊性論』
思想家、武道家としても知られる内田樹氏と、浄土真宗本願寺派・如来寺第19世住職の釈徹宗氏のかけあい講義が、キリスト教思想をベースとする大学で展開。2005年9月から半年間、神戸女学院大学で行われた授業をまとめた一冊。元々、内田先生のちょっとした思い付きから始まったそうで、いきなりハナシを振られた釈先生は
「えらいの引き受けちゃったなぁ。“霊性”って、簡単に定義できないのだ。一歩間違えれば、もう宗教研究者として“キワモノの人”になってしまう。ううう、それはちょっとイヤだ」…と言いつつも、ぶっつけ本番で何の打ち合わせもなく突入しちゃったとか。
“霊”という「わけのわからないもの」を、社会生活の中でどのように機能しているかを「現象学的アプローチ」で明らかにする、個人個人で感じ方は違うにしても、なんとなく合意形成が出来ている「霊」というものをじっくり吟味して、私たちにとっての「霊」とは何なのか、をあぶりだしていくということを目的に対話が始まる。日本の祖霊信仰と死生観の変遷、地名と“場の力”、“名前”が持つ力、葬礼の意味、スピリチュアルブームの正体・・・などと展開して行く。
『現代霊性論』
内田 樹,釈 徹宗 共著
講談社 刊
2010年2月 初版発行
極にゃみ的に面白かった部分を抜粋。
P161
一九七五年という分岐点
日本では宗教回帰現象が3回あった。1868年の明治維新、1945年の敗戦、そして高度成長に陰りがさした1975年のオイルショック。
「便利になれば、楽になれば幸せになれると思って成長し続けていたのが、資源には限りがあることがわかった。(中略)今までの枠組みが揺さぶられて“前に進んで競争に勝てば幸せか?”と疑いはじめ、どうもそうじゃないぞ、と気づく人が増えた」(釈)
「それともう一つ、75年と言ったら、誰が何と言ってもベトナム戦争でのアメリカの敗戦だと思うんです。“アメリカン・ドリームの終焉”がこの頃から始まった。1945年から75年までの30年間、戦後60年のうちの前半30年間は、基本的にはアメリカン・モデルの有効性を日本人は誰も疑わなかったと思うんです。
(中略)僕自身のことを言うと、75年当時は25歳だったんです。高校から大学に入るくらいまでは、自分と同世代の集団が、みんなそれほど違っていないという実感があった。しかし75年ぐらいに“あ、違ってきた”という感じがした。“あっち”へ行く連中と“こっち”に行くやつとが分岐しちゃった。(中略)今考えると、“あっち”ってたぶんアメリカン・モデルの有効性をそのあとも信じようとした人たちというふうに言えるかもしれません。戦後30年それでやってきて、なんとかしのいできたわけだから、その日本の制度をこれからも維持していくんだ。アメリカン・モデルって平たく言えば“人間はお金があればハッピー”ということでしょう」(内田)
P212
「共食行為は典型的な強化儀礼です。みなさん日本史で“直会”というのを習いませんでしたか?簡単に言うと、一緒にご飯を食べる行為のことです。神様にお供えしたものを、村のみんなで食べたり飲んだりする。そうすることで共同体が維持されるわけです。
戦後、地域共同体が解体されて、村が持っていた機能が果たされなくなったときに、その機能を肩代わりしたのが企業だったとよく言われます。企業は社員がどんなに無能であろうとも終身面倒を見る。その代わり、社員はプライベートを犠牲にして、みんなで飲んだり食べたりしてコミュニケーションしながら、会社という共同体を維持してきた。そうした村のシステムを企業に持ち込んだがために、日本は敗戦国でありながら、人類史上稀に見るほどの短期間に高度な成長ができたと言われています。」(釈)
P274 Q8 カルマってどういう意味ですか。
「甲野善紀先生から聞いたんですけど、甲野先生は“業”のことをあえて“税金”と言うんだそうです。“税金を払う”とよくおっしゃる。
甲野先生の説だと、天才的な武道家というのは、みんな本人は身に一つの傷も負わないのだけれども、最愛の人を失うという形で罰を受ける。甲野さんはそのとき歴史に名を残すような超絶的な武道家の名前を何人か挙げられましたけれど、その全員が奥さんか子どもをどこかの段階で亡くしていて、たいへん孤独な晩年を迎えたそうです。だから、人から騙されたり傷つけられたり、中傷されたりすることがあると、甲野先生は“ああ、よかった。これで税金を前払いした”と思うそうです」(内田)
P278
「ツキってダマで来るんですよね。平均的に来るということはない。いいことは集中的に来るし、悪いことも集中的に来る。いいときに図に乗って“好天モデル”をベースにして生きていると、ある日どかんと不運に遭遇する。ちょっと“業”とは違うと思うんですけど、運に偏りがあるというのは間違いない。集団の中で誰か一人に運不運が集まることもあるし、一人の人間でも、一時期に集中的にいいことが起こり、一時期に集中的に悪いことが起こる。集中的に運がよいときに、どうやって広げた店を畳んで、潮目の変わる前に逃げ出すか。その見きわめってほんとうに難しいです」(内田)
P290
「“運がいい人”というのは、周りからは“選択するときにいつも正しいほうを選ぶ人”というふうに見えているんだと思います。でも、そうじゃない。“運がいい人”っていうのは選択しない人なんです。分かれ道に至って、“さて、どちらの道を選んだものか”と自問する人は、その時点でかなり運に見放されている。というのは“運がいい人”の眼には道は一本しか見えていないから。(中略)逆に、繰り返しさまざまなトラブルに巻き込まれる人がいますね。それは、ご自分で“そういう道”を選んでいるからそうなるんですよ。人間だって生物である以上、すべての生物と同じく自己保存の機能が生得的に標準装備されています。だから危険なファクターが近づけば“危ない”というアラームが鳴り出す。そのときアラームが鳴っても目覚まし時計を止めてしまう常習犯のように、アラームを消してしまう人がいる。そういう人がだいたいトラブルに巻き込まれる。
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