原爆忌の間に・・・
8月6日が広島原爆忌、明日9日は長崎原爆忌。原爆投下から67年が過ぎた今…
広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」という言葉を思うとき、いまの日本は、世界はどうなんだろう、いう疑問がわきあがる。
原爆の犠牲者たちは、日本という一国の戦争被害者としてではなく、世界平和の礎として祀られている。
「核の平和利用」という甘言に乗せられて、原発を国中に建設してしまったこの国。原発と原爆を混同するな、という意見があることは承知しているが、いずれにしても核物質というものが人類に災厄をもたらす史上最悪の物質であることに違いはない。
慰霊碑に刻まれた上記のフレーズについて、先日読んだ『生きる意味を教えてください─命をめぐる対話』の中でこのように書かれている。
第7章 「ヒロシマとアウシュビッツの体験から」
森氏の発言
P283
広島に原爆慰霊碑があります。そこに刻まれた有名なフレーズ「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」。このフレーズについて保阪正康さんが、新潮新書『あの戦争は何だったのか』の冒頭で、とても否定的に書いています。国際政治評論家の田中宇さんも、このフレーズはおかしいと発言しています。要するに主語がわからないということなんだろうな。で、東京裁判の際にA級戦犯全員無罪を主張したパール判事、彼もやっぱり後の来日時に違和感を表明していますね。このフレーズはアメリカが発すべき言葉で、被害を受けた日本人が発すべきでないということですね。
とにかく昔から、何かと評判の悪いフレーズです。ほとんど四面楚歌。でも僕はこのフレーズを全面的に評価します。これは加害者が被害者に謝罪するためのフレーズではない。被害者と加害者の区分けではなく、今生きる人たちが原爆で死んだ人たちに対して誓うフレーズです。もし世代が変わったにしても、常に生き続けている人はいるわけで、その生き続ける人が未来永劫に死者に対して誓うフレーズ。そう考えたら、とても重要な意味をこの慰霊碑は今のこの世界に対して投げかけていることに気づきます。
「未来永劫に死者に対して」過ちを繰り返さないと誓った、その思いは空中分解してしまったのだろうか。ヒロシマ・ナガサキで放射能による莫大な人的被害を受けたにも関わらず、戦後の国策で原発を容認してきた日本。手遅れかもしれないけれど、せめて今回のフクシマに学んで、将来この世に生を受ける人たちに、これ以上の放射能汚染を押し付けないようにしてほしい。地殻変動が活発化していると言われている今、一刻の猶予もないのではないかと思うのだが。 長崎原爆忌の前日に思う・・・。
原爆忌と直接関係はないが、同章の少し前の部分も抜粋しておく。
人が人を殺すとき、悪意ではない場合があるというお話。戦争もしかり、宗教もしかり。原発推進の人だって悪意はないのだが、だからこそ怖いということもある。
アウシュビッツの展示に違和感を覚えたという森氏。
P257
記憶の主体が被虐側、つまりユダヤ人で終始している。それに対する違和感です。たとえば「死の壁」というユダヤ人の処刑場が残されていて、当時のユダヤ人がこっそりと描き残したスケッチが展示されていた。吊るされるユダヤ人がいて、その周りでドイツ人の将校たち、つまりSSがたばこを吸ったり、談笑している様子が描かれている。処刑を見物している彼らのその表情だけ見れば、確かに血も涙もない。冷酷非道な男たちです。
P260
僕はね、最初の映画である『A』撮影時に、初めてオウムの施設にはいって信者たちの日常を撮ったとき、事件直後だから世間では、「凶悪な殺人集団」とか「洗脳されて自分の意思を持たないロボットのような集団」などと言われていた彼らが、とても優しくて純粋で善良であることに衝撃を受けたんです。だからこそ考えねばならない。邪悪で凶悪だから人を殺すわけじゃない。むしろ、善良で純粋で優しいからこそ、人を殺す場合があるんです。それも大量に。悪意が燃料となった場合は数人が限度です。人はそれほど強くない。でも善意や正義などが燃料となったとき、人はとても大勢の人を殺戮します。なぜなら摩擦係数が少ないから。だから、ホロコーストでも、あるいは文化大革命とかポルポトとか、これほどの規模の戦争や虐殺を考えるときは、悪意より善意を射程に置くべきだと僕は思っている。
P270
人はなぜ宗教を必要とするかという命題があります。すべての生命体には生存欲求があります。とても強い衝動です。でも人は、すべての生命体の中でおそらく唯一、自分がやがて死ぬことを知ってしまった生き物です。これがとても大きな矛盾であり、コンフリクトなんです。だからこそ輪廻転生や極楽浄土などの思想で死後の世界を規定してくれる宗教が必要となる。
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