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『生きる意味を教えてください─命をめぐる対話』

「答えの見つからないことを考えていても意味ないでしょう」
Ikiruimi_wo「だいたい、一人が考えたってどうなるものでもないし」
 それはそうかもしれない。でも、と私は思う。私は答えの出ないことを考えるのが好きなんだけどな。できれば一緒に考えてほしい。みんなでああだ、こうだと考えて、もし答えが見つからなかったとしても、語り合ったということだけで十分に満足なのだ。


という書き出しではじまる対談集。
藤原新也さん(写真家・作家)、
内田樹さん(神戸女学院大学教授、現代思想・身体論)、
西垣通さん(東京大学情報学環教授、情報学)、
鷲田清一さん(大阪大学総長、臨床哲学)、
竹内整一さん(東京大学教授、倫理学)、
玄田有史さん(東京大学教授、労働経済学)、
森達也さん(映画監督、作家)、
宮台真司さん(首都大学東京教授、社会学)、
板橋興宗さん(御誕生寺住職)、という錚々たるメンバーとのスリリングな会話。サクサク読める内容ではないので、ずいぶん読了までに時間がかかったけれど、読み応えのある一冊だった。

『生きる意味を教えてください─命をめぐる対話』
田口ランディ 著
バジリコ株式会社 刊
2008年3月 初版発行

ちょこっと抜粋。

2章の内田氏との対談で、レヴィナスとホロコーストの話題が出たところで内田氏の発言。 

 自分だけ生き残ってしまった。最大の困惑は、なぜ自分だけが生き残ったのかわからないということです。理由があれば納得もできる。けれども何の理由もなく、偶然生き残ってしまった。では、この先、どうやって生き延びたことを意味づけるのか。

というくだり。内田氏自身、学生運動に身を投じていたときに、紙一重の偶然で仲間を亡くしている。

 生き残った人間が自分が生き延びたことの理由を事後的に構築しなければならないとしたら、その人間にできることは一つしかない。
 それは、死んだ人たちが生きていたら成し遂げたであろうことを自分自身のなすべき責務のうちに含めるということです。自分が他者のし残したしごとを自らの責務として引き受けなければ自分に生き残った意味はないだろう、そういうふうにレヴィナスは考えたのだと思います。


5章、竹内氏との対談で、「自分とは何?」という問いに対する対話。

田口 「自分は何?」という問いに関しては、何か答えはあるのですか。」
竹内 ないです。これが私だ、私ってこういう人です、なんていうのは単なる思考停止にすぎないしね。「みずから」というのは副詞で、どこまでも名詞化できない。だから、どこまでも問い重ねていくしかないと思う。そして、その「みずから」やっている中身といえば、それは今、ランディさんが言ったことで、結局は自分がこれまで取り入れてきたさまざまなものを受け止めまとめ組みかえて表現していくことでしかない。自分だけの発明品なんてぜったいありえないんだから。


6章、玄田有史と「生きる意味」について。

玄田 生きる意味とか死の意味とか、やはり自殺する人たちも問うんでしょうか。
田口 確かに意味を問うのは落ち込んでいるときが多いですからね。元気いっぱいでハツラツしていたら意味なんて問う必要もないほど、体が自明に生きたいと思ってくれる。肉体の生命力が枯渇していけば、生きる自明性が失われて、意味というものに取りつかれていく。意味は問えば問うほど苦しくなるに決まってる。だって、そもそも答えなんて、ないわけだから。
玄田 必要なのは意味よりリズムだと思う。ニートで一番苦しいのは、生きるリズムが崩れているときです。


8章、宮台氏。

 昔は便益を調達するために身体を使わなきゃいけなかったのが、今はテクノロジーで身体を使う必要が免除されました。それを拡張しますと、昔は酩酊薬物を含めた変性意識の呼び込みを軸に、身体的能力を使って〈世界〉と接触することで、〈社会〉を存続させるメカニズムがありました。祭りですね。ところが、既にお話したように、近代社会では〈社会〉が〈世界〉とは無関連に〈社会〉のメカニズムによって存続できるようになるので、我々に要求される身体能力が小さくて済み、変性意識状態や酩酊状態はむしろ好ましくなくなります。強さと弱さを引きつけると、これが僕らの弱さに繋がってきます。
 当たり前だけど、悩みがあるときにカウンセリングや薬でも癒せるけど、正拳突き100回みたいな(笑)フィジカルトレーニングでも癒せるんですね。


同じく宮台氏。
 優れたサーファーとかスケーターとかボーダーは、多かれ少なかれ、ランディさんがおっしゃったような〈世界〉と〈社会〉が交叉する場所にいるんじゃないかな。


ある種のクライマーたちも、まさにそんな風に感じる。
 

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コメント

内田先生の本はたくさん読んでいていつも共感することが多いです。
僕がなぜ徹底的にクライミングに没頭しているかということは、先生が書かれていることと同じ理由です。
去っていった彼らが僕に与えてくれたことを僕はどこまで・・そのスピリッツを共に成就出来るか・・・


しかし、内田先生が同じようなことを考えていらっしゃるなんて、ちょっと驚きでした。

投稿: hiroganesh | 2012年8月 7日 (火) 00:54

内田氏は、学者さんだけど、長年武道をされてますよね、
身体感覚というものをすごく大事にされている感じがします。

身体感覚、身体能力って近代以降すごく軽視されていますが…

宮台氏もまた、マーシャルアーツという洋モノですが格闘技をされているのですが、彼も述べているように、「身体能力」が必須要素でなくなってヨノナカ変わってきてしまっているのかなって思います。

身体能力の低下が、感受性そのものが低下させているというか。

ジャック・マイヨールと、エンツォ・マイヨルカの比較をしている部分があるのですが、
ある種のサーファーやボーダーが〈世界〉と〈社会〉の交叉する場所にいる、という指摘は、ダン・オスマンとかのクライミングもその分類なのだろうなーって思うのです。

“去って行った”彼らが持っていたもの、残った我らが受け取るべきもの…


山で亡くなったわけではないけど、ルーデンスS氏もまたそのような人でしたね。

投稿: にゃみにゃみ。 | 2012年8月 7日 (火) 07:06

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