『挑戦する脳』
4.非典型的な脳 から要約
「普通」と「普通でない」ものの区分けは難しい。日常的に、「普通じゃない」とか「異常だ」などと口にするけれど、これらの言明は「政治的に正しくない」ばかりか、「科学的根拠」にも乏しい。「普通」(normal)という言葉には「正しい」というような価値判断が忍び込みやすいので、「典型的」(typical)という表現が適切ではないか、と述べる。
そういう意味で脳というものを考えたとき、「非典型的」な脳の持ち主に、興味深い可能性が見られるのだという。
相対性理論で知られるアインシュタインは、5歳まで言葉をしゃべらず、今で言うところの「学習障害」だったのではないかと言われているそうだ。
ほかにも、映画『レインマン』の主人公のモデルとなったキム・ピークの事例、盲目の天才ピアニスト、デレク・パラヴィチーニの事例から、例えばダウン症のような「非典型的」な脳を持った人が持つ「サヴァン能力」と呼ばれる驚異的な能力について解説。
左右の目でそれぞれ同時に本の右ページと左ページを読んだり、一度読んだ本は一字一句違わず覚えたり、どんな過去であっても日を特定すると曜日を言い当てたり、一度聞いただけの音楽を完全にその通りに再現したり。五体満足で「典型的」な脳の持ち主では想像もできないようなとてつもない能力を持つ人がいるのだそうだ。
つまり、学習障害やダウン症をはじめ、何らかの障害を持っている人は、能力の発現の仕方が“典型的”でないかもしれないけれど、“典型的”ではないとてつもない能力を秘めているかもしれないということ。
以下、少し抜粋してみる。
P37
挑戦というものが、人生のいろいろな様相の中で、かたちを変え、文脈を異にして繰り返し現れるものであるということ。そのことを正しく見きわめることが大切である。絵に描いたような「グランド・チャレンジ」だけでなく、自分の人生におけるほんの些細な「挑戦」をも正当に評価すること。自分の身体を動かし、感覚のフィードバックを受け取り、そうして脳の神経系の結合パターンをアップデートしていく。そのような学習の普遍的なプロセスにおいて、「挑戦」が持つゆるやかで豊饒な意味合いを手放してはいけない。
P89
私たちは、脳の回路から一つの機能が失われることを、あるべきものの「欠損」としてとらえがちである。しかし、実際には、脳の機能は、「あちらを立てればこちら立たず」の「トレードオフ」の関係になっていることも多い。脳の回路を視覚に使わない人は、他の感覚のためにそれを割り当てることができる。そして、視覚に頼っているときとは異なるモードで脳全体を使うようになる。
P90
盲目の天才ピアニスト、デレク・パラヴィチーニの存在は私たちにとってひとつの「象徴」である。彼が象徴しているものは何か。それは、欠損は必ずしも欠損とならず、所有することが必ずしも恵みになるとは限らないという脳の働きの奥深さである。
P100
いずれにせよ、「転んでもただでは起きない」のが人間の脳である。そもそも、発達のために「最善」の環境などない。たとえあったとしても、そのような環境に生まれなかったといって脳の発達の機会が失われてしまうわけではない。
P105
人は、笑うことができるからこそ挑戦し続けることができる。リヒャルト・ワグナーの楽劇『ジーク・フリート』の最後には、「笑いながら死ぬ」という台詞がある。英雄は笑いながら、死の可能性を秘めた場所へと赴いていく。乙女は、不安を抱きつつ、笑いながら未知の領域へと飛び込む。大らかに笑うことができる人が、結局のところ最も深く人生の「不確実性」というものの恵みを熟知している。
P112
人生には、最初から決まった正解などない。なのに、あたかも正解があるかのような思い込みをして、自分自身がその狭い「フェアウェイ」を通ろうとするだけでなく、他人にも、同じ道を通ることを求め、強制する。それは「挑戦する」という脳の本質からかけ離れている。
たとえば、子どもたちは小さなころから「お受験」に駆り立てられる。
(中略)
想定された「正解」の軌跡から外れてしまうのは、「負け組」になり、「下流」に落ちることだとの強迫観念にかられる。マスメディアも、無反省に、相変わらずの「人生の正解」を垂れ流す。何しろ、大手新聞社やテレビ局などに入社した人たちは、自分たち自身が「進学校」から「一流大学」、そして「大企業」へと進む「人生の正解」を歩んできた。「人生の正解」がここにあると繰り返すことは、自分たちのこれまでの人生を肯定することにつながる。一方で、そのような報道が、そうしたルートから外れてしまった人たちに対して、いかに「抑圧的」に働くかということについては、想像力を持たない。
(中略)
P113
本来、人間の脳の最も優れた能力は、何が起こるかわからないという生の偶有性に適応し、そこから学ぶことである。予想できることばかりではなく、思いもかけぬことがあるからこそ、脳は学習することができる。予想できることとできないことが入り混じっている状態は、いわば、学習し「挑戦する脳」にとっての「空気」のようなものである。日本の教育現場は、行き過ぎた標準化、管理によってこの大切な「空気」を奪い、脳を「窒息」させて、その成長する力を奪ってしまっている。
(中略)
P114
インターネットは、偶有性のダイナミクスそのものである。一つのキーワードで検索すると、予想できる結果もあるが、同時に思いもかけぬ結果も出てくる。そのような「予想できること」と「予想できないこと」が入り混じったような状況が常態化しているのがインターネットという現場なのである。
(中略)
このような「偶有性」の時代に求められているのは、ある決まった知識を身に付けることではない。むしろ、大量の情報に接し、取捨選択し、自らの行動を決定していく能力である。異なる文化的バックグラウンドの人たちと行き交い、コミュニケーションしていく能力である。
そのような時代に、日本の教育現場の実態は「偶有性」から逃げてばかりいる。初等教育から高等教育まで、「標準化」と「管理」が支配的なモチーフであり、子どもたちが偶有性に適応するための能力が磨かれていない。
P118
日本人の「偶有性忌避症候群」の背後には、おそらくは大いなる不安があり、怖れがある。「人生の正解」から外れてしまうことへの恐怖。所属すべき「組織」や、自分が拠って立つべき「肩書き」を失うことへの不安。どの国、どの文化にもそのような傾向はある程度見られるが、日本人においては、「偶有性忌避症候群」がとりわけ強い。
P126
「アンチ」と「オルタナティヴ」は、脳の使い方が違うと述べた。「アンチ」は、分析や批評が中心であり、下手をすれば反対している事象に対して「おんぶにだっこ」になる。
それに対して「オルタナティヴ」は、不満のある現状から飛び出したある生き方を、具体的に示さなければならない。それは、一つの「創造」の行為である。
P164
ウィキリークスの出現が、理論的にも興味深いのは、それが「自由」と「情報」の間の密接な関係に光を照射するからである。国家は、軍隊や警察などの「暴力装置」を持っている。あまつさえ、アメリカやイギリス、フランス、ロシア、中国といった「核クラブ」のメンバーは、合わせると人類を何回も絶滅させることができるような核兵器を蓄積している。それに対して、ウィキリークスは何らの暴力装置も持っていない。それが扱うのは、ただ、通常は「国家」が「秘匿」している情報のみである。情報をリークすることで、国家の作用を減衰させる。ここには、「情報」と「権力」、そして「自由」の関係についての興味深い視点が見え隠れする。
「情報」を独占することが、権力に源泉になるということはわかりやすい理屈であろう。
対人関係や社会の中での「権力」は、情報の偏った流通によってこそ担保される。経済学では、情報の非対称性の改善が市場原理に対する修正として議論される。軍事の領域においては、「情報」の漏洩が勝敗や生死にかかわる重大事になる。
P169
もし、ウィキリークスが従来の国家のあり方に影響を与えるのであれば、国家がそれに対応して変われば良い。硬直化した「主体」概念は、生身の人間にとっても、国家にとっても害である。もともと、インターネットは、国境を超える性質を持っている。それは、本来的に国家による中央集権的な統制に馴染まない。ユーチューブやツイッターなど、特定のサービスを国家が遮断しても、IPアドレス偽装などさまざまな手段を用いてかいくぐる人が出てくる。ウィキリークスのもたらした衝撃は、マクロに見れば、国家という「主体」が、新しい情報環境の出現によって変化せざるを得ないという一般状況の一つの顕れにすぎない。
第19章 できない
もまた面白かった。
★コチラ
web上ではいろいろ言われている方だが、この本は面白かった。 一読の価値ありと思った。
そして、たまたまこれを読んでいるとき、新聞のコラムが面白かったので、それも転載してみる。
2012年12月28日付神戸新聞夕刊1面「随想」
仲道郁代さん(ピアニスト)
ある生徒をレッスンしていた時のこと。「想像力はどうして必要なのでしょう。演奏という現実的な行為には邪魔になりませんか」という質問を受けた。音楽することの本質に迫る質問だ。
私たち演奏家は、作曲家が抱いたイメージ、感情を汲み取ろうと努力する。楽譜に書かれているのは音符という記号でしかない。そこから何かを立ち上がらせるのが、演奏という行為だ。
音楽とは本来曖昧なものだ。ある曲を聴いて、皆が同じ感想を持つなんてことはあり得ない。でもそれでよいのだ。そう、音楽を感じることに答えはない。けれど、答えのないことが不安を誘うというのも事実。
よくよく考えてみると、人生や生活において答えのあることなんてどのくらいあるのだろう。買い物のお釣りの額があっているかどうか、そんなことぐらいじゃないかしら。
音符という記号から読み取ろうとするものには果てしない可能性がある。だからひたすら考える。感覚を研ぎ澄ます。そこには見えないもの、答えのないものを探す面白さがある。想像と創造の同時進行。それが音楽だ。
論理的に書かれた記号から感動という説明できない何かを起こす。音という空気の振動、その積み重ねを体感し、それを不思議な格別な実感に結びつける。そのためには大いなる想像力を必要とする。
表面的な数字や記号だけを積み重ねたところで、心には届かない。それは、音楽も、人生も、未来も、人と人との繋がりも同じこと。答えのない、見えない、曖昧なものたちを、謙虚に想像することがもたらすことの広がりを、可能性を、大切にしたい。それが幸福への一番の近道になるに違いないことを、私たちは本当は、もう知っているのではないかしら。
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