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『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』

チベットの奥地にある世界最大の峡谷「ツアンポー峡谷」。
Kuuhaku_5ヒマラヤの険峻な山岳地帯の北側を流れるこの川は、ナムチャバルワとギャラペリというふたつの大きな山に挟まれた峡谷部分で大きく円弧を描き、「ツアンポー川大屈曲部」を形成している。その部分は近寄ることすらできず、どこへ流下しているのかを確かめるすべもなかったことから「謎の川」と呼ばれてきた。長年多くの探検家や登山家が踏破すべく挑戦したが、激流と険峻な地形にそのことごとくが跳ね返されてきた。
そして、早稲田大学探検部で活動をしていた学生時代に1924年の英国のフランク・キングドン=ウオードによる探検以降、ツアンポー峡谷に残された地理的空白部の踏査が一向に進んでいないことを知った著者が、世界初の完全踏破を目指し、2002年~2003年、そして2008年のチベット暴動を経て入域許可が廃止になりそうな政治情勢に陥った2009年に再度挑んだ記録。
最後の挑戦は、結果的に無許可で単独。地元民の協力も得られず、その上に想定外の寒波襲来と悪条件が重なり、決死の脱出行となる…

要は、誰もいないところで勝算の見えない過酷なソロをえんえんやっているという状況…。いやー、もうハラハラしっぱなしだった。

『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』
角幡 唯介 著
集英社 刊
2010年11月 初版発行
第8回開高健ノンフィクション賞、第42回大宅壮一ノンフィクション賞 受賞


★ノンフィクション作家、探検家角幡唯介のブログ
 ホトケの顔も三度まで

例によって極にゃみ的抜粋。

P252
 険しい谷の中を歩くといっても、行動様式としては登山とほとんど変わらない。ヤブをかき分け、岩を登り下りするだけである。しかし、このような長期にわたる無人地帯の踏査行が登山と決定的に違うのは、だめだったら下りればいいという選択肢が与えられていないことだ。人と接触するにはギャラまで戻るか、この先をさらに進んでほかの村にたどりつかねばならないが、いずれにしても10日以上はかかるのである。進めば進むほどアリ地獄のように、もう後へはひけないという状況に足を踏み入れていく。そんな世界一巨大な牢獄みたいなところを、私ははいずりまわっていた。
 それに私は、自分で決めたこととはいえ、ひとりだった。ツアンポー峡谷での単独行は自分の行動を冷静にコントロールしなければならないという緊張感を、長期間保つことが求められた。登山や冒険における単独行は仲間がいる場合と比べて、まったく異なる行為だといっていい。単独行はすべての責任を自分で引き受けなければならない。一歩踏み出す責任、岩を登る責任、ロープを出すか出さないかの責任、それに伴う時間の遅れ、続けるかどうかの判断、自分の知識と経験を脳内と肉体に蓄積されたデータベースから引き出し、それを目の前の状況と照らし合わせて最善の選択肢を選ばなければいけない責任である。無理をしてはいけない。このような隔絶された環境で生きのびるいには、そういう単純な原則を守ることが重要だった。
 だが逆に、自分の生命を危険にさらすこうした環境は、生きているという事実を強く心に刻みつけもする。ツアンポー渓谷における単独行は、必ず生きて帰らなければならないという感覚を、これまでの登山や探検よりもはるかに強く私にもたらした。
 いつ終わるとも知れない、本当に終わりがあるのかどうかすら自信が持てない状況の中、ただひたすら単調に前に進む。先が見えない分、先を急ごうというあせりもほとんど生じない。ある意味、ただ生きて動いているだけで、死なないことが日々の課題だった。

P292
…(略)…もし単独行でなく仲間がいたら、と思うことが時々ある。もしそうしたら、ギャラから空白の5マイルを突破してザチュまで抜けるという、私が目指した究極の旅も成功していたかもしれない。だが、本当に求めていたのはそういうことではなかった。私はツアンポー峡谷に裸一貫で飛び込み、命からがら逃げ出した。その体験が私にとっては特別なものであり、キントゥプに始まる「ツアンポー峡谷をめぐる冒険」という行為の、かなり深い部分を理解できた感触がある。
 それでも多くの人はこう問うだろう。なぜ命をかけて、そこまでする必要があるのか、と。
 極論をいえば、死ぬような思いをしなかった冒険は面白くないし、死ぬかもしれないと思わない冒険に意味はない。過剰なリスクを抱え込んだ瞬間を忘れられず、冒険者はたびたび厳しい自然に向かう。そのようなある種の業が、冒険者を支配していることを否定することはできない。論理をつきつめれば、命の危険があるからこそ冒険には意味があるし、すべてをむき出しにしたら、冒険には危険との対峙という要素しか残らないだろう。冒険者は成功がなかば約束されたような行為には食指を動かされない。不確定要素の強い舞台を自ら選び、そこに飛び込み、その最終的な責任を受け入れ、その代償は命をもっと償わなければならないことに納得しているが、それをやりきれないことだとは考えない。
 リスクがあるからこそ、冒険という行為の中には、生きている意味を感じさせてくれる瞬間が存在している。


「サバイバル登山家」服部 文祥さんもそうだが、“死”をリアルに意識することが“生”を際立たせるというのは確かだろう。その方法論はヒトによって違うだろうけれど。

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