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『愛と痛み 死刑をめぐって』

2008年4月に行われた辺見庸講演会『死刑と日常―閾の声と想像の射程』をAito_itami改題、講演草稿を大幅に修正・補充して書かれた一冊。
まえがきにこう書かれている。
 大激変(キャタクリズム)の時代という。経済恐慌だけではなく、人間社会の価値システムが音たててくずれ、気候変動や大地震、大洪水など未曽有の災害ないし大小の戦争が早晩現前するだろう、とこれまでのどの時期よりも人びとにつよく予感されている。ほとんど創世記的な規模とイメージでの破局と誕生―――それがキャタクリズムである。

それでも、と著者は続ける。
破局の寸前まで私たちの「日常」はあたかも慣性の法則のようにつづけられるだろう、ということである。日常はそして、この国のばあい、死刑制度とその執行をさりげなくつつみもつであろう、ということでもある。世界が破滅する数秒まえでも、この国においては、絞首刑を予定どおりにおこなうようなすくいがたい愚昧から脱することができないのではないのか。それほどに、死刑制度はこの国の人びとの日常にたくみに溶けこみ、きわめて不幸なことには、グロテスクに“なじんで”もいる。
(中略)
 本書をあなたが繰っているそのあいだにも、この国では絞首刑の執行が着々と(法相は“粛々と”というのだが)準備されている。いまが平日の午前中なら、まさに「現在、絞首刑執行中」かもしれない。愛と痛覚をなくした時間―――それが私たちの日常である。

『愛と痛み 死刑をめぐって』
辺見 庸 著
毎日新聞社 刊
2008年11月 初版発行

極にゃみ的抜粋。

2006年のクリスマスに、日本でいくつかの死刑が執行された。

P43-44
 このとき絞首刑に処せられた4人のうちの1人が病人であることをさらに後になって私は知りました。75歳という高齢の病人で、自力で歩くことができなかったといいます。おそらく車椅子だったのでしょう。たしかに過ちをおかし収監された人にちがいない。しかしみずからの力で歩くこともできない人間を刑務官が脇からかかえて強引に立たせ首に絞め縄をかけたのです。これを可能にする倫理というものがいったいどこにあるというのか。

P59-61
 かつて、ひそひそ声で陰で囁かれていた世間の声が、メディアが世間と合体したことによってこの国に公然とまかり通るようになったのです。世間は新聞やテレビメディアだけではなく、インターネットの世界にまで拡大しつつある。世間という不思議な、非言語的、非論理的な磁場からくる加重が、かつてよりずしりと重く私たちにのしかかっている。それと反比例するかのように、われわれの愛は薄く、軽くなっていくのでしょう。

P69
あくまで顔色をうかがうべきは世間なのです。山口県光市の母子殺人事件の弁護団にたいしていうとすれば「世間を敵にまわした」ということになるのでしょう。……世間を敵にまわすことがこの国での最大の悪事だということが、弁護団をとりまいた過剰なバッシング報道、感情的な反応、卑劣な揶揄をみればわかるはずです。

P70
societyやpublicは個人の尊厳を前提しますが、世間では個人が陥没する。

P71
言葉で強要されることはないけれど、かわりに気配や空気で無私であることが期待される。

P74
この国の日常は〈非言語系の知〉、主体のはっきりしない鵺のようなものが支配している。

P89
EUの加盟国はすべて死刑を廃止しており、死刑廃止はEU加盟の条件でもあります。2002年5月以降は全加盟国が、戦時中を含むすべての状況における死刑の完全廃止を規定した。

EUのHP冒頭より
「1983年から90年にかけて、四人の日本人が冤罪により死刑判決を受け、再審の後、釈放されました。米国では過去12年間に116人の死刑囚が、累計にして1000年を獄中で過ごした後、死刑執行を免れました。」

P109
死刑は国権の発動ではないのか。国権の発動とは、自国民への生殺与奪の権利を国家にあたえるということです。

極にゃみ的には、今の時点で、死刑制度の是非を語ることばを持てない。
それは、およそ人間の仕業とは思えないような凶悪な犯罪が現に行われ、無残にもその犠牲となる人がいるという事実と、それではその罪を、殺められた命がどう贖われるべきなのかの答えを見つけられないからなのだが…
冤罪によって人生を奪われる理不尽が存在することもまた事実。
“国家”が国民の命を奪っていいのか… 答えの出せない問題なのである。

参考:「フォーラム自由幻想」の中の太田昌国『暴力批判論』 から

「死刑」を支持するひとびとは、「戦争」を容認し、「拷問」を黙認する。

そうかもしれない。

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