『観光コースでない広島 ―被害と加害の歴史の現場を歩く』
風光明媚だったり、歴史や由緒のある“明るく美しい”部分だけをフォーカスしがちな、一般的な“観光ガイド”ではなく、暗い歴史や悲惨な過去にも光を当てる〈観光コースでないシリーズ〉の一冊。
第1章「廣島からヒロシマへ」で広島の歴史、原爆投下と被爆の実相、戦後の被爆者について詳しく紹介、第2章「爆心地を歩く」では原爆ドームをはじめ、すさまじい被害を受けたエリアの状況を、続く章でも、被爆地ヒロシマについて独自の視点で詳しく述べている。
特筆すべきは、6章「ヒロシマをめぐる文化・芸術」、7章「広島周辺を歩く」、そして8章『「ヒロシマ」点描』。
7章では、海軍の町・呉について、世界遺産の宮島と原爆被害者の関わり、地図から消された毒ガスの島・大久野島、米軍再編に揺れる岩国のことを取り上げている。サブタイトルに「被害と加害の歴史の現場を歩く」とあるとおり、アメリカによる原爆投下の被害だけを取り上げるのではなく、旧日本軍が行ったこと、今、日本に駐留する米軍のこと…
極にゃみ的にはなぜかいろいろとご縁を感じている広島。
折を見て、必ずこの本を手に観光コースではない広島を旅してみよう。
そして… 何やらキナ臭いにおいが漂う今のこの国。
「…政府の行為によって再び戦争の惨禍が繰り返されることがないように決意し、ここに主権が国民に存することを宣言してこの憲法を確定する」という、大切な憲法が示す平和主義の原則を今一度胸に刻みたい。
『観光コースでない広島
被害と加害の歴史の現場を歩く』
澤野重男・太田武男・高橋信雄・大井健地・是恒高志・山内正之・吉岡光則 著
高文研 刊
2011年7月 初版発行
以下、極にゃみ的覚書
まえがきから
■はじめに
アメリカのオバマ大統領の「プラハ演説」(二〇〇九年四月五日)以来、にわかに「核兵器のない世界」への期待が高まった。しかしオバマの演説が、「核兵器を使用した唯一の核保有国の道義的責任」として「核廃絶の方向に向かって行動する責任」があると言ったとしても、アメリカが広島・長崎に対する原爆投下の責任を認めたわけではない。
オバマは「核拡散防止」は言うが、「核抑止」も必要だと言い、核兵器の使用を否定しない。だから、誰かが「核兵器のない世界を」と言ったときに、それはどういう意味なのかを考えてみる必要があることを、私たちは学んだ。他人まかせは止めにして、どうすれば「核廃絶」が可能なのかを、自分の頭で考えてみようと、私たちは言いたい。
アメリカの「核の傘」の下にいて「核廃絶」を主張することの矛盾、そして平和憲法の下で米軍基地や自衛隊が存在する現実にも目を閉ざしてはならない。「ノーモア・ヒロシマ」の声が世界に届くために、どうすれば良いか、何が必要かを、もっと多くの人とともに考えていかなければならないだろう。
そのために、まず多くの人たちに広島へ来てほしい。
爆心地に来て、ヒロシマを見てほしい。広島の街角に隠された被爆建物や軍都の遺跡を訪ねてほしい。広島周辺の岩国や呉の戦争と平和をめぐる歴史と現実を見てほしい。宮島や大久野島の歴史秘話を知ってほしい。また、ヒロシマの文化や芸術、歴史や思想について考えてほしい。広島に何があり、何がないかも見てほしい。
そんな思いで、私たちは本書をつくろうとしていた。
私たちが執筆にとりかかっていたちょうどそのとき、二〇一一年三月一一日がやってきた。
東日本大震災は、地震と大津波によって二万人を超える死者・行方不明を出す大災害となった。そして、収束の目途が立たないのは、地震と大津波の自然災害に、東京電力・福島第一原子力発電所で起きた「事故」が加わったからである。「自然災害」に「人災」が加わって、「原発震災」となったことが、不安をいっそう大きくしている。
原発の「安全神話」はもろくも崩れ去った。フクシマの原発事故は、放射性物質の放出量が数万テラベクレル以上になって、二五年前に起きた、旧ソ連のあのチェルノブイリ原子力発電所の事故と並ぶ「レベル7」の〝評価〟を受け、不安が世界に広がっている。
「フクシマとヒロシマはヒバクという点では同じ」という声も上がる。被爆地ヒロシマからは、「核兵器のない世界のために」の声に、「核被害のない世界のために」の声を重ねて、ノーモア・ヒバクシャといっそう強く叫ばなければならないのではないか。
ヒロシマは壊滅した街である。同時に再生した街である。この街から学ぶことは多い。そのような思いを強くしながら、私たちは本書をつくった。なお執筆者は、長く広島とその周辺に暮らして、それぞれの課題に取り組んでいる七人である。
二〇一一年五月三日 執筆者を代表して 澤野重男
【覚書】
■原爆投下
1945年8月6日、テアニン島から発進した「エノラ・ゲイ」号が高度約9000m、時速約330kmで当方から広島に飛来、投下目標の相生橋の約3.8km手前のJR芸備線矢賀駅上空あたりで原子爆弾をリリース。放物線を描きながら落下した爆弾は、標的からわずかに南東にあった「島外科病院」の600m上空で炸裂。
爆発点は瞬間的に数十万気圧の超高圧となり、強烈な衝撃波と熱風が発生。衝撃波は10秒後には約3.7km、30秒後には約11kmに達し、その圧力は爆心地から500m離れた地点で、1平方メートルあたり19トンという強大なものだった。衝撃波と爆風で爆心地から2km以内では木造家屋がほとんどが倒壊。
同時に発生した「きのこ雲」は高さ17000mに達し、爆発の20~30分後には広い範囲で「黒い雨」が降った。
■原爆被害
熱線、爆風で即死した人、即死を免れた人も全身に大やけどを負い、被爆後数時間のうちに発熱・のどの渇きや嘔吐を訴え、ショック症状を起こしてほとんどの人が1週間くらいで死亡。火傷や外傷が軽かった人々も、発熱・下痢・吐血・下血・血尿などの症状が出始め、10日前後で多くの人が亡くなった。10日を過ぎる頃から症状が出始めて、4か月ほどの間に次々と死者が出た。これらの急性放射線障害による死者のほかに、5年後頃から白血病患者が増加、10年後には甲状腺がん、乳がん、肺がんなど、いろいろながん発生率が高まり、長く被爆者を苦しめ続けた。
たった1発の原子爆弾は、推定約14万人を殺した。
「大量殺人」であるばかりでなく、非戦闘員を含む「無差別殺人」であり、即死を免れた人に長期に渡って深刻な行為障害を与え、死ぬまで健康や生活を脅かし続けた「長期・継続的殺人」であった。
P140 コラムより抜粋(澤野重男氏)
本書のサブタイトルは「被害と加害の歴史の現場を歩く」である。広島が「被害と加害」の歴史の現場であるというのはただしい。広島は被爆都市であると同時に軍都であったからだ。「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」(村山談話、1995年)。
これを忘れる者は未来に誤ちを犯す者である。しかし、「原爆が戦争を早く終わらせた」とか「原爆投下は日本の侵略戦争と植民地支配の罰だ」というのはほんとうか。核兵器は、熱戦・爆風・放射線による大量・無差別の殺人兵器である。さらに熱線・爆風の後遺症や、放射線による後遺障害によって、死ぬまでヒバクシャをおびやかし続ける非人道的兵器である。遺伝的影響も心配だ。「被害者顔」は良くないが、核兵器使用の非人道性と核廃絶を訴えるのはヒロシマの責務だ。(略)
■阪口喜一郎のこと
1932年2月、反戦をよびかける新聞「聳ゆるマスト」を発行、治安維持法による「行政検束」(逮捕状なしで拘束する)で捕えられ、拷問に屈せず、裁判を受けることができないまま、1933年12月に広島刑務所で看守によって撲殺。
■地図から消された「大久野島」
明治時代に「芸予要塞」が設置され、昭和4年には毒ガス工場が建設された。
1946年の極東軍事裁判では、アメリカの政策で日本軍の毒ガスによる戦争加害についての事実は明かされなかったが、実際には日本軍は中国で2000回以上毒ガスを使用し、8万人以上を殺傷したことが明らかになっている。
大久野島の毒ガス工場で働いた約7500人の日本人も後遺障害などで苦しみ、その後もがんになる人が多かった。
読みたい本
■柳田邦夫『空白の天気図』(新潮社・1975年)
原爆投下の翌月、9月17日に襲来した「枕崎台風」は広島に甚大な被害をもたらした。山津波で壊滅した大野陸軍病院をはじめ、2000人もの人命が失われた。
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