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『標高8000メートルを生き抜く 登山の哲学』

エベレスト(ネパール名:サガルマータ 中国名:チョモランマ)、K2、Hirotaka_t_tozanカンチェンジュンガ、ローツェ、マカルー、チョー・オユー、ダウラギリⅠ峰、マナスル、ナンガ・パルバット、アンナプルナⅠ峰、ガッシャブルムⅡ峰、ブロードピーク、ガッシャブルムⅡ峰、シシャパンマ。
地球上に存在する8000mを越える山々14座に日本人で初めて完全登頂した「14サミッター」で、“プロ登山家”を名乗る竹内 洋岳氏による初の著作。

『標高8000メートルを生き抜く 登山の哲学』
竹内 洋岳  著
NHK出版新書 刊
2013年5月 初版発行

プロ登山家 竹内洋岳公式ブログ

立正大学山岳部所属の学生時代にシシャパンマ遠征に参加したのが初の8000m峰への挑戦。

このときにはC4(約7500m地点)までしか行けなかったが、この山行から14サミッターへの道が始まる。
2007年、国際公募隊の一員としてガッシャブルムⅡに登っているとき、6900m地点でC3へのルート工作中に雪崩に巻き込まれ、300m滑落。山の斜面の形が変わるほどの大規模な雪崩で、4名が巻き込まれ、1名はほぼ無傷で救助されたものの、1名は死亡、1名は未だに行方不明のまま。
そして、埋没しながらも他隊のメンバーに救助された著者は、全身打撲、肺が片方つぶれ、背骨のひとつが破裂骨折、肋骨6本骨折という重症。たまたまC2にいたドイツ人ドクターがモルヒネを打ちながら「残念ながらおそらく明日まで持たない。今のうちに家族にメッセージを残せ」と言われるような状態で、本人を含め誰も助かると思っていなかったが、奇跡的に一命をとりとめて、山に復帰。翌年、所属団体などとのしがらみをすべて断ち切り、背骨にチタンのシャフトが入ったままの身体でガッシャブルムⅡに再挑戦。この登頂成功は日本人初の「10座」の壁を越えた山行でもあったが、その疲れも癒えないまま峰続きのブロードピークにも連続登頂。その翌年ローツェ、2011年にはチョー・オユーを登り、ついに2012年5月に14座目のダウラギリⅠへ…。
これらの山行のエピソードや、大けがからの復帰にまつわる話などを織り込みながら、竹内流「登山の哲学」が語られている。

最終章「危険を回避する想像力」から少し抜粋

P182
 山には「危険だ」というイメージが持たれます。実際に、山登りをしない人には危険な場所だし、山登りをする人でも、命を落とす事故は毎年のように起きている。私自身もエベレストでは意識不明に陥ったし、ガッシャブルムⅡでは一度死んだも同然。
 でも、危険だから山には登らないほうがいいという考え方は、正しくない。私はそう思っています。
 他のスポーツに比べれば、登山は確かに「死」が身近に感じられます。だからと言って、クライマーたちは「死んでもいい」と思って登っているわけではない。危険というのは、見えやすいほど避けやすいのです。「死」を身近に感じられるからこそ、その「死」をいかに避け、安全に頂上までたどり着くか。それを考えるのが登山です。

P185
街に潜む見えない危険
 「見えにくい危険」というのもあると思います。「意識しない危険」と言ったほうがいいかもしれませんが、私たちの普段の生活の中にも、ひょっとしたら命に関わるような危険はたくさん潜んでいます。
 でも、見えにくいから、避けにくい。街の中で暮らしていると、危険から自分の身を守る力が、あまりj働かなくなってしまうような気もするのです。
 少し山登りの話からは外れますが、昔から不可解に感じていた事故があります。登下校中の子どもたちの列に車が突っ込むという事故です。悲惨な出来事ですが、一向になくならない。毎年のようにどこかで発生している。なぜなんだろうと、私はずっと不思議に思っていた。
 その疑問に対して、明快な答えを聞かせてくれた人がいます。埼玉県桶川市にある、いなほ保育園の北原和子さんです。
 「並ばせるからいけないの。並んで歩けと言われたら、子どもたちは前の子の背中について行くことばかり考えるから、まわりに注意をしなくなるでしょ」
 列からはみ出れば叱られてしまう。だから前の子の背中を見て、列を乱さないように歩くことに神経を集中し、その他の感覚がオフになってしまう。きちんと並んでいれば安全だと教えられているから、並んでいるときは道を走る車のことなどまったく気にしなくなる。
 さらに、並んで歩いている子どもたちは、ドライバーには景色のように映る。子どもが一人で飛び出せば生き物だとすぐにわかるけれど、きれいな隊列は壁やガードレールと同じように見えてしまうから、ドライバーも気づくのが遅れる。人を轢きそうになったときと、壁にぶつかりそうになったときとでは、ドライバーの反応も違うから、間に合わずに突っ込むのだと、北原さんは言うのです。
(中略)
 野生の動物なら、危険が迫ったときはバラバラに逃げます。並んで前について同じ方向に逃げていたら、自分で自分の身は守れない。だから、並ばせてはいけないのだと、北原さんは話していました。

P192
課題はまっすぐ歩くこと
(略)
 感覚としては、一本の平均台の上を歩くのではなく、二本の幅の狭い線路の上を、つま先が左右に振れないように、まっすぐ歩く。体のバランスを崩しながらではダメです。体勢が傾いたりすると、元に戻そうとして、そこでエネルギーを使ってしまう。常に体の軸を一定に保ちながら、まっすぐに歩くのです。

P197
経験は積み重ねず、並べるもの
(略)
 私にとっての経験とは、積み重ねるものではなく、並べるものなのです。経験が増えれば増えるほど、数多くのディテールが知識となって記憶にインプットされます。そのディティールとディティールとの隙間を埋めていく作業が“想像”です。だから、経験の積み木のすべてが見渡せるように、テーブルの上に広げておく。そして、並べてある位置を移動させたり、順番を入れ替えたりしながら、隙間を埋め尽くすほど想像を膨らませていくわけです。
 たとえば、急峻な氷壁を越えなければならないような場面。「どうやったら安全に効率よく登れるか?」という選択肢を100通り想像できていたとします。ところが、一歩踏み出した瞬間に選択肢は半分くらいに減り、三歩、四歩と進むうちに、選択肢はどんどん消去されていきます。消去されたら、そこで再び想像し、選択肢を増やしていく。そうやって前に進んでいくことが、山頂に向かって自分を押し上げるという行為なのです。
 経験に頼るのではなく、想像を広げながら登るからこそ、登山はおもしろくなり、危険も回避できる。想像を楽しむために、まともに呼吸もできないつらさが待っているのを承知で、私は超高所の頂を目指し、下りてくるのです。

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コメント

経験から、何を学ぶか、、、は
本当に人それぞれですね。

ひとつの事象を見るとき、
いかに想像力豊かに見られるか、なのだろうけど。

それでも、やはり人並み外れたことを成し遂げたひとには、それだけ何か違うものがあるのだろうと思います。

投稿: にゃみ。 | 2014年2月 7日 (金) 17:23

人のやらないこと、できないことを成し遂げた人間には
確かに哲学があります。
死という恐怖にまともに向かい合う瞬間を経験すると
否応なく自分自身のアイデンティティを考えてしまう。

おのずとその後の人生に何かしら深みを与えて、
人にやさしく、己に厳しく…生き方も素敵で…なあ~~んてね。

まあ、そんな人ばかりじゃあないですけどね。
同じくらいの割合で、身勝手な人も多い…わね。

投稿: オバカッチョ | 2014年2月 7日 (金) 16:27

あらら気づいてなかった・・

山野井泰さんの『垂直の記憶』もすごくよかったけど、
やっぱり何かを「やり遂げた」人のならではの説得力、のようなものはありますよね。

投稿: にゃみ。 | 2014年1月25日 (土) 21:04

失礼しました、「読まなくちゃ」が「まなくちゃ」に...。

でも、やり遂げた方の考え方や姿勢には本当に学ぶところが多いのでしょうね。
勉強させていただきます。

投稿: @brackworm | 2014年1月25日 (土) 20:19

よい本でした。
山に登るひとにはもちろん、
山登りなんかしないひとにも役立ちそうなことがアレコレ。
ぜひぜひご一読を。

投稿: にゃみ。 | 2014年1月25日 (土) 18:45

抜粋が秀逸ですね...これは買ってまなくちゃいけませんね。
こんなに高い山に登るつもりはないのですが、危険に対する考え方が参考になりそうです。

投稿: @brackworm | 2014年1月24日 (金) 23:58

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