3.11から3年。いま思っていること。
東日本大震災から丸3年。3年経ってもまだ避難生活を強いられている人々が26万7千人。そして、もう二度とふるさとに帰ることができない人々も…。
→舩橋淳監督 「フタバから遠く離れて」(3月23日まで無料配信中)
事故を起こした福島第一原発は、アンダーコントロールどころか、メルトダウンして収束のめどもたたない。
この小さな島国が浮んでいるプレートが、地震の活動期に入っているという指摘もあり、南海トラフがいつ動いてもおかしくない状況で、原発の再稼働だなんて狂っているとしか思えない。そして、もうひとつとんでもないのは、放射能汚染の深刻さについて、マスメディアがきちんと報じないこと。
この3年で学んだこと。
マスコミは本当に必要な大事な情報を教えてはくれないということ。
“巨大なシステム”に依存していると、それが壊れたときにどうしうようもなくなるということ。この2つから導き出されるのは、「与えられるものを受け取る」だけではダメだということ。巨大すぎるものは危ないということ。
「マス」も「グローバル」も、もういらない。
藻谷浩介氏著の『里山資本主義』に共感したのは、つまりそういうことだったのだ。『成長から成熟へ さよなら経済大国
』に書かれていることもそう。
大量生産大量消費のシステムに組み込まれている状態から少しでも離脱して、地に足の着いた暮らしへ。信頼できる情報源を自ら求め、信頼できる仲間たちとつながっていくこと。これからは、はっきりとそんなものを目指していく。
昨日の神戸新聞の夕刊に掲載されていた、哲学者・鷲田清一氏の連載コラム氏「ラジカルラジオ」に書かれている「新しいサイズ感」というのもまさにそういうことだと思う。
以下引用。
東日本大震災後の3年間、わたしたちは自分たちの生活がいかに制御不可能なものに依存しているかを思い知りました。一つは原子力発電、一つはグローバル経済です。エネルギーの消費がどれほど過酷なリスクを内包しているか、食材から建築資材までどれほどグローバル市場の動きに翻弄されるものかを痛感しました。生活をある程度制御可能なもの、つまりはいつでも修正や停止がみずからの手でできるようなものへと組み替えないと危ないと知ったのです。
これは世直しにも匹敵する大事業です。大事業ですからこれも個人の手では制御しえない。ならば、まずはみずから生活スタイルを変え、支えあいのネットワークをしっかり紡いでおく、そんな方向に若い人たちが一歩踏み出すというのは自然なことです。
まわりの若い人たちを見ていて、なにか新しいサイズ感が生まれつつあると感じます。暮らしに無理がかからないよう職住接近にする。ブランドの服にも自家用車にも惹かれず、背伸びをしないで生活を愉しむ。おかずを持っていける距離くらいのところに仲間が寄り集まる…。
そういうときに役立つのが、コミュニティーラジオというメディアなのかもしれません。聴くだけの受け身のメディアではなく、みずからも表現や発信や情報提供に関われるような参加型のメディアです。行政から医療、教育、流通まで、サービス・システムの消費者でしかないことから一歩踏みだして、地域生活のありようをめぐってふと立ち起こるつぶやきにふれ、そこから問題意識を共有できるようなところまでカバーするメディア。市民がみずからメディアになる、そんなネットワークです。
身のまわりで起きているさまざまの問題を前にして、その問題解決のコンテクストを自分たちで編んでゆけるということ。生活の新しいサイズ感がそういう社会的な行動につながって、地方分権といわれながら空洞化したままの地域運営に活かされることを期待しています。
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