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『「リベラル保守」宣言』

長年(何も考えてないゆえの)「ノンポリ」を標榜してきたけれど、978410そんなことを言ってられるようなお気楽なヨノナカじゃなくなってきてる。で、難解な文章は理解がおぼつかない薄ぼんやりとしたおつむながら、善き市民であるために、一生懸命文献を読んだりしてるわけだが… 
先日読んだ『脱グローバル論 日本の未来のつくりかた』の中で、「リベラル」と「保守」って???と、ふと思って読んでみたのがコチラ。
これまで「リベラル」か「保守」かと問われたら、よくわからないままに「まぁ右じゃぁないけど…」などと曖昧なことをもごもごと述べていたんだけど。つまり、それって「何にも考えてなかった(and知らなかった)」、ことが自覚できた。

いきなり本文から引用してみる。

 日本ではよく「リベラル」対「保守」というように、「リベラルであること」と「保守であること」は対抗関係にあるように捉えられます。どうも保守思想というと「反リベラル」と見なされることが一般的ですが、果たしてこのような認識は妥当なのでしょうか。
 私は「リベラル保守(liberal conservative)」という立場が重要だと考えています。真の保守思想家こそリベラルマインドを共有し、自由を積極的に擁護する側面があると思っています。
 保守は、行きすぎた平等主義による人間の平準化を嫌います。権力によって均一的な横並びを強要され、秀でた才能や能力が虐げられる状況が現出すれば、それに異議を申し立てるでしょう。平等という名の画一化こそ、保守が断固として闘ってきた政治力学に他なりません。
 一方で、保守は「裸の自由」も懐疑的に捉えます。過剰な自由は無原則の放縦を生み出し、倫理を破壊します。社会秩序は乱され、世の中が混乱の渦の中に落とされます。風紀が乱れ、利己的な放埓が支配する世界を、保守は断固として拒絶します。


にゃみアタマなりに、面白く読めた一冊。いわゆる“ウヨク”じゃなく、こういう保守ならアリだ。

『「リベラル保守」宣言』
中島岳志 著
新潮社 刊
2013年6月 初版発行

さらに引用。

P19
 リベラルであることは、他者を尊重し、会話の作法を重視する姿勢に基づきます。リベラルマインドは歴史的・社会的に構成されるものであり、それは保守的精神によってこそ確立されるものなのです。

P45
 他者は常に異質な要素を含有する存在です。生まれ育った環境や価値観が異なる以上、同一性のみで構成された他者は存在しません。
 一方で、すべてが異質な他者と、我々は合意形成をすることができません。対話が成立するためには、対話の作法が共有されていなければならず、言葉遣いや振る舞いといった文化的慣習が基盤になります。
 私たちは異なる他者との間で、同一的な共有性を基盤としながら対話を進めます。マナーや作法、ルールを前提とした人間交際こそが、他者との差異の葛藤を引き受けながら合意形成するプロセスを生み出します。
 本質的な議論は、相手を打ち負かすことではありません。相手の言い分に理があると認識した際には、その見解に配慮しつつ、着地点を探ることこそが議論の本質です。ここでは、歴史に支えられた経験知に基づく平衡感覚が威力を発揮します。相手と自己の差異の間で平衡を保ち、自己変容を伴いつつ合意を生み出すことこそが、社会的存在である人間の英知です。

(略)
 現在、注目を集めている橋下大阪市長の政治手法は、中間団体を既得権益としてバッシングし、群衆の後見人として独断的政治を進める「多数者の専制」に他なりません。人々はシニシズムが蔓延する中、後見的権力に積極的に服従し、熱狂を続けます。これこそが「民主的専制」のグロテスクな姿です。
 群衆と成り下がった我々は、公衆となる意思を持ち直すべきではないでしょうか。



P48
 さて、ここで我々が何気なく使っている「世論」という言葉ですが、この語の読みは「よろん」と「せろん」び二つがあります。そして、多くの人は迷いなくこれを「よろん」と読んでいます。
 これは間違いではありません。しかし、かつての日本人は「よろん」と「せろん」を明確に区別し、「世論」は「せろん」と読んできました。一方、「よろん」は「輿論」と表記し、別の意味を込めてきました。
 一体、「世論」と「輿論」はどのような違いがあるのでしょうか。
 これはそれぞれを英語で表現してみると、違いが明確になります。「輿論」は英語にすると「パブリックオピニオン」、つまり「公的な意見」のことです。一方で「世論」は「ポピュラー・センチメント」で、「大衆的な気分」という意味になります。

(略)
 しかし、常用漢字の問題で「世論」という語が「よろん」とも「せろん」とも読まれるようになり、「輿論」という語があまり使われなくなりました。それに従って「輿論」と「世論」の区別がつかなくなり、次第に「世論」という語に一元化されるようになりました。
 これは単なる漢字の表記だけが問題なのでしょうか。もしかすると、「輿論」という言葉が使われなくなったのと並行して、「パブリックオピニオン」が「ポピュラーセンチメント」に飲み込まれるという現象が起こってきたのではないでしょうか。



P52
 近年、政治不信が高まるのと同時に「決められる政治」への渇望感が高まっています。確かに現在の国政は目も当てられない状況です。まともな議論が成立せず、機能不全が深刻化しています。
 だからと言って、何でもかんでも議論をすっ飛ばし、独断で決定する政治が良いとは思えません。議会制民主主義の重要な点は、代表者が国会という場で異なる他者と出会い、対話と交渉を通じて合意形成することです。少数者の意見でも「なるほど、一理ある」と思える意見であれば、それを最大限に尊重し、状況の中で調整することが重要なポイントです。
 民主制は、真剣にやっていこうとすると極めて面倒くさいシステムです。対話の作法を重んじ、マナーやルールに基づいて異なる意見を調整しながら、少しずつ合意を形成していくのですから、時間も手間もかかります。
 しかし、多くの国民がこのようなシステムに耐えられなくなってきています。かつて「拙速」と言われたことが「スピード感」として称揚され、時間をかけずにトップダウンで決定することが「リーダーの条件」と言われたりします。しかも、その決断の正当性は「民意の支持」に置かれており、気分化した世論と独断的政治家が一体となる「多数者の専制」が具現化されようとしています。
 我々は「世論」の問題を直視し、「輿論」の重要性を再確認する必要があるのではないでしょうか。政治の拙速に歯止めをかける「輿論」の再興を、真剣に考えなければならない時期に来ていると思います。



P101
原発のリスク
 自動車も飛行機も、確かにリスクのある存在です。しかし、原発のリスクはそれらをはるかに上回ります。一旦事故が起こると(事故の規模にもよりますが)相当程度の国土が汚染され、人間が中長期間にわたって住むことができなくなります。また、周囲はかなり広範囲にわたって放射能の危険にさらされ続け、水や食品に影響が出続けます。長い年月をかけて構成されてきた歴史的景観、人間の営み、農地の土壌― そういったものを一気に放棄しなければならない事態が生じてしまいます。直接的な被害だけでなく、その不安や精神的圧迫感なども考慮すると、そのリスクはあまりにも大きすぎるというのが実情でしょう。少なくとも、原発事故はこの国土を手間暇かけて整備し、守ってきた無名の先祖に対する冒涜であり、歴史を無下にする暴挙です。
「安全な原発には賛成」という専門家がいますが、そのような前提は人間が人間である以上、成り立ちません。原発は事故が起こることを前提に考えなければなりません。


【参考サイト】
中島岳志×鈴木邦男  ~リベラル保守×新右翼~
★その1「なぜ保守と右翼なのか」…ココ!

★その2「貧困問題と暴力」…ココ!

★その3「ナショナリズムとアイデンティティ」…ココ!/a>

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コメント

>他者を尊重し、会話の作法を重視する姿勢に基づき…

このことは至難の業。
これができないばかりに…
喧嘩もするし、だましたり、妬んだり…
挙句…戦争も起きるんだし

きちんとした倫理観もなく自己主張ばかりが目立つ人間が多くなっている中で…

議会制民主主義も机上の空論??なのかと思ってしまう。


投稿: 同人 オバカッチョ | 2014年10月22日 (水) 13:20

経済優先で、「儲かること」が一番大切、な世の中だと、
効率の悪いものは「悪」なんですよね。

>議会制民主主義も机上の空論??なのかと思ってしまう。

というわけで、時間のかかる「意見のすり合わせ」が基本であるところのこの考え方を「非効率で悪しきもの」とする価値観が、今進行しつつある民主主義の死因… 

他者を尊重するところからしか、
自分自身を尊重してもらうことはあり得ないのに。

投稿: にゃみ。 | 2014年10月23日 (木) 16:19

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