『街場の戦争論』
『街場の憂国論』『街場の憂国会議
』に続いて読んでみた“街場”シリーズの最新刊。
まえがきに「僕たちが今いるのは、二つの戦争つまり「負けた先の戦争」と「これから起こる次の戦争」にはさまれた戦争間期ではないか。これが僕の偽らざる実感です。」とある。
単なる“憂い”であればそれに越したことはないが、そうとも言い切れない不気味な兆候は確かにある。選挙の争点は「経済」、と強調していたにも関わらず、ふたを開けたらとたんに「集団的自衛権」を持ち出すこの国…
著者は巻末にこう書いている。
あと五年十年先にこの本を読み返したときに「あの頃ウチダが書いていたことって、結局全部杞憂だったな。だって、今の日本はこんなに平和で、みんなこんなに幸福そうなんだから。どうだいこの本をひとつ『予測がめちゃめちゃ外れた、知性の不調の好個の適例』としてみんなで笑いものにしようじゃないか」というようなことをみなさんが言って大笑いしている風景をぜひ眼の黒いうちに見ておきたいというのが僕のささやかな願いであります。ほんとに。
…ってウチダ先生!ホントにそうなってもらわないと困ります!
どうか本当にそうなりますように、恐ろしい可能性について多くの人に知ってほしい。ぜひご一読を。
『街場の戦争論』
内田樹 著
ミシマ社 刊
2014年10月初版発行
例によって少しだけ抜粋と参考リンクを。
【参考サイト】
★内田樹の研究室「週刊プレイボーイインタビュー記事」…ココ!
★東京新聞【書く人】
「敗戦の総括 継ぐ責務 『街場の戦争論』 思想家・武道家 内田 樹さん」…ココ!
(抜粋)
P59
丸山眞男が指摘しているとおり、ドイツの場合、ことの良し悪しは別にして、戦争指導部にははっきりとした戦争計画があり、戦争目的がありました。自分たちは「劣等民族」たちを征服して、彼らを奴隷化するための戦争を始めるのだ、と。ナチスはたしかにそういう明確な目標を揚げて戦争を始めました。でも、日本には「私が戦争を始めようと言い出して、戦争が始まった」と言う人間が戦争指導部にいなかった。東京裁判では、被告たちは口を揃えて「いつのまにか始まっていた」というぼんやりした印象を語りました。これでは戦争責任の糾明のしようがない。
戦後日本が主権国家になれなかったのは戦争に負けたからではありません。負けた後に、自力で戦争責任を糾明し、なぜこんな戦争を始めてしまったのかをあきらかにし、「次は勝つ」ことをめざしてシステムを再構築するという「ふつうの敗戦国」の取る道を取れなかったからです。
P78
死者の負債の引き継ぎを拒否する主体に「喪主」の資格はありません。当然のことです。「死者の作った負債なんかオレは知らんよ」と言いたい人は言えばいい。けれども、そういう人間は葬送の儀礼にはふつうは招かれません。
下関戦争の賠償金支払いを明治政府が幕府から引き継いだのは「負債の残り」を前任者から引き継いだものだけが正統な後継者として認知されるという国際法的な常識をわきまえていたからです。この「負債の引き継ぎ」という発想が現代の政治家たちにはほとんど構造的に抜け落ちていることにもっと驚いてよいのではないでしょうか。それが日本が「負けすぎた」せいで保持することができなかった戦前・戦後の政体の一貫性の喪失のもっともわかりやすい、そしてもっともみすぼらしい徴候なのだと僕は思います。
「戦後レジーム」とは
僕が言いたいのは、僕たちは「帝国以後」の国民だということです。復古的な政治的主張を掲げる人たち、日の丸を揚げろとか「君が代」を歌えとかうるさく言い立てる人たちにしても、誰一人「帝国臣民だった記憶」を持っていない。彼らが「復古」しようとしている国のかたちは彼らが自分の頭でこしらえた私的な妄想に過ぎない。
僕はこういう薄っぺらな政治的観念のために感情を技巧的に動員するやり方が嫌いです。「戦後レジームからの脱却」というスキームそのものは僕自身の考え方と同じです。それで悪くないと思います。でも、そのときに「戦後レジーム」という言葉に彼らがどのような定義を与えているのか、首尾よくそこから脱却した先に「どこ」に着地するつもりなのか。そのイメージがまったく僕には伝わってこない。ただ「戦後レジーム」とか「美しい国」とかいう記号だけしかそこでは行き交っていない。
僕が「戦後レジーム」と呼びたいのは、今の首相を二度政権の座につけたレジームそのもののことです。首相自身が端的にわれわれが脱却すべきレジームの徴候なのです。彼が今おこなっている政治活動そのものがまさしく「戦後レジームの最終形態、そのグロテスクな完成形」以外の何ものでもない。
かつて小泉純一郎は「自民党をぶっつぶす」と獅子吼して総選挙に圧勝しました。いま安倍晋三は「戦後日本をぶっつぶす」と呼号して高支持率を保っている。でも、彼らは自分たちが揚げたスローガンが彼らを最高権力者に就けたシステムそのものの破壊、つまり彼ら自身の政治的正統性を否定することなしには果たしえないタスクだということにどれくらい自覚的なのでしょう。
僕が「戦後レジーム」と呼ぶのは一言にして言えば、主権のない国家が主権国家であるようにふるまっている事態そのもののことです。どうせそう呼ぶなら、それをこそ「戦後レジーム」と呼んでいただきたい。
この国は久しく重要な政策については自己決定権を持っていません。重要な政策についてはアメリカの許可なしには何もできない。自前の国防戦略も外交戦略も持つことができない。起案してもアメリカの同意がなければ政策を実現することができない。最終決定権がないのであれば、それについてあれこれ議論しても始まらない。それについて考えてもしかたがない。だったら、自前で考えて、それについてアメリカに可否の判断をいちいち仰ぐより、最初から「アメリカが絶対文句を言いそうにもない政策」だけを選択的に採用すれば効率的ではないか、そう考える人が統治システムのあらゆる場所で要路を占めるようになりました。すべての政策が「アメリカが許可するかどうか」を基準にして議論される。自分たちとしてはこれがいいと思って熟議した後に差し戻されて、またやり直すくらいなら、最初から「アメリカが許可してくれそうなこと」を忖度して政策起案した方が万事効率的である。そういう考え方を人々がするようになった。それが七〇年二世代にわたって続いている。
映画監督のオリバー・ストーンが広島に来て講演したときに、こう言っていました。日本には豊かな文化がある。映画もすばらしい、文学もすばらしい、食文化もすばらしい、でも、あなたがたの国には、かつて高邁な道徳や平和のために立ち上がった総理大臣がひとりでもいたか、と。
「あなたがたはアメリカの衛星国(satelite state)であり、従属国(client state)である。経済的には大きな実力を持っているにもかからわず、あなたがたはいかなる立場も代表していない(you don't stand for anything。」(2013年8月6日)
(略)
主権的でありたいと願うなら、時にはアメリカの世界戦略に対して異を唱えてもいいはずです。たとえば、ブッシュ大統領がイラク戦争の開始を宣言したとき、世界中のアメリカの同盟国の多くはその拙速をたしなめました。日本だけです、アメリカの国益をいずれ大きく損なうリスクの高い決定を断固支持したのは。
小泉純一郎はイラク戦争がアメリカの国益を増大するのか減殺するのかを考量することなく、「アメリカが決めたことなら支持する」という「従者の忠節」ぶりを国際社会に誇示してみせました。小泉という人はなかなか腹の読めない人ですから、イラク戦争がアメリカの没落を早める失着であることをわかった上で「背中を押した」のではないかという解釈を僕は捨てませんけど、そんなふうに感じたのは日本人のごく一部だけでしょう。ただ、オリバー・ストーンのようなアメリカ人たちは直感的に小泉のブッシュ支持の底にひそむ「無意識の悪意」を感じとっていたかもしれません。
P156
「経済成長に特化した国づくり」などありえない
改憲派の方々は二言目には「われわれは直近の民意を受けている。文句があれば次の選挙で落とせばいい」と言います。でも、これは典型的にビジネスマン的な用語法です。仮にも政治家が口にしてよい言葉ではありません。
P166
グローバル企業的ではない企業、つまり日本国民の雇用を確保し、地元企業の育成に責任を持ち、国庫への納税を義務と感じ、収益が上がったら、学校や美術館や図書館を建てて地元に寄付しようというような企業は、当然ながらコスト競争でグローバル企業に太刀打ちできません。だから、人々が「どんな企業の製品であろうと、一円でも安いものを買う」ことが消費者の権利であり、義務であると考え続けるなら、すべての非グローバル企業は競争敗者となってマーケットから退場することになるでしょう。
それでかまわないと思っている人たちが今の日本で政策を決定している。コストを国民国家に外部化し、最低賃金で人を雇い、何の社会的責任も果たす気がない企業が勝ち残ることが「フェアネス」だと信じている人たちが日本のエスタブリッシュメントを形成している。彼らが自己利益を最大化するシステムを選考するのは合理的です。自分さえよければ日本なんか滅びてもかまわないというのは幼児的な考え方ですが、本人がそうしたいというのなら僕には止める権利はない。けれども、企業がその収益を最大化するために自分自身の安寧や健康を犠牲に差し出しても「かまわない」と考えている人たちがこれほどの数いることに僕は驚愕します。自分たちを「資源」として収奪しようとしている企業のためなら、戦争をしてもいい、私権を制約されてもいい、そう考える人たちが国民の過半数に近い。いや、過半数を超えているかもしれない。あきらかに自己利益を損なうような生き方を進んで採択する国民の数がこれほどまでに達したのは、戦後どころか日本開闢以来はじめてのことでしょう。その事実の前に僕はうなだれてしまうのです。
P189
武道が最終的に求めている境地は「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということに尽くされます。そして、そのほとんどは自己決定できるものではありません。たまたま出かけたところで、会うべき人に会い、なすべきことを教えられる。それこそが「生きる力」であると多田先生は教えておられる。
P250
日本には豊かな国民資源があります。深い森、清浄な水、肥沃な土地があり、その気になれば、誰でも農業に従事して自分たちの食物を自給自足することができる。そういう環境が整っている。そのことを政府もメディアもアナウンスしようとしません。そのようなオルタナティブが提示されたら、相当数の都市生活者が都市を脱出して、帰農してしまう可能性があるからです。そんなことをされたら、東京一極集中モデルに基づいて作られた経済システムそのものに影響が出る。消費者も労働者も狭い地域にぎゅうぎゅう詰めになっていて、それぞれが規格化された労働者(つまり代替可能な労働者)として働き、規格化された(隣の人と同じものを欲望する)消費活動をするからこそ、製造コストを最小化し、利益を最大化するというビジネスが成立するわけです。消費者も労働者もそれぞれのライフスタイルが「ばらけて」しまったら、企業は収益を上げることができない。
この「その気になったら帰農できる」というオプションは国民には隠しておきたいし、できることなら潰したい。これが政財官の現在のねらいです。TPPの国内的な政治目的の1つは小規模自営農という生き方を不可能にすることです。TPP推進派は「強い農業」だけが生き残り、生産性の低い農家は市場の淘汰圧にさらされて退場すべきだと主張しています。
(略)
まず農業林業水産業を潰すこと、これは経済成長論者たちの語られざる目標です。地方で生きるという選択肢そのものをなくす。それが彼らの考えていることです。本当にそうなのです。
P247
今後、集団的自衛権を発動して、日本がイスラーム圏でアメリカの軍事行動に帯同した場合、日本はイスラーム過激派のテロの標的になるリスクを抱え込むことになります。そのことが高い確率で見通せるにもかかわらず、安倍首相とその周辺が前のめりに戦争にコミットしようとしているのはなぜか。
半分は安倍首相という個人のパーソナリティに起因していると思います。「戦争がしたい」という個人的な理由があるのでしょう。でも、それは個人の無意識の領域で起きている出来事ですから、われわれには関与のしようがない。けれども、そのような無意識的欲望が政策に展開するのは、それとは違うもっと実利的な理由があります。経済成長です。
無理やり経済成長するために…
日本にはもう経済成長の余地がありません。これはすでに何度も書いてきたことです。それでも無理やり成長させる手立てがまったくないわけではない。それは「無償で手に入るもの」をすべて「有償化」することです。今ならただかただ同然で手に入るものを市場で商品として購入しなければならない事態にすれば、消費活動は活性化し、経済成長率は跳ね上がります。
それは経済成長率の高い国々のリストを見ればわかります。二〇一三年の経済成長率世界一はどこだかご存知ですか。南スーダンです。一九五五年から二次にわたる内戦で疲弊し、今もスーダンとの国境紛争が激化している南スーダンが世界一。二位はシェラレオネ。クーデタ、内戦が続き「世界一平均寿命が短い国」と言われる国が第二位。三位はパラグアイ。内戦、軍事独裁、クーデタで前途多難なパラグアイが第三位。四位がモンゴル、五位のキルギス。前年の成長率世界一はカダフィ大佐暗殺後のリビアでした。ご覧のとおり、中央政府のガバナンスが脆弱で、社会的インフラの整備が遅れている国が高い成長率を示すことがわかります。理由は簡単です。長く続いた戦乱がいったん収まると人々は破壊された市民生活を取り戻すためには、生きていくために必要なものをすべて市場で調達しなければならなくなるからです。住む家も着る服も家財道具も、むろん食糧も水も医薬品も文房具も書物も、すべて買い揃えなければならない。経済が活性化するのは当然です。
今の政権は経済成長のことばかりを問題にして、定常的に確保されている国民資源については何も語らない。フローの話だけして、ストックについては言及しない。でも、日本は世界でも例外的に豊かな国民資源に恵まれている。たとえば、森林資源、水源、大気、治安、医療、教育、ライフライン、交通網、通信網。そういうものが整備されているおかげで僕たちは無用の出費をせずに済んでいるわけです。
でも、経済成長のためには「安定したストックがある」ことはむしろ邪魔になる。
たとえば、日本は治安がよいわけですが、これを治安が悪い状態(たとえばテロのリスクがある状態)にすれば、人々は金を出して安全を買わなければならなくなる。ホームセキュリティと契約し、防犯カメラを設置し、柵を高くし、富裕層はボディガードに囲まれて防弾ガラスをはめたリムジンで外出するようになる。「防犯ビジネス」という新しい市場がここに出現するわけです。
どうです。怖いでしょう。「杞憂」で終わってくれることを強く願うけれど、単に「願う」だけではこの禍々しい流れを止めることはできないかもしれない。小さな力でも行動すること。意思表示をすること。一人一人の力は小さくても、民衆のうねりとなってこの国が、戦争を放棄した平和な国であり続けることを守り通せますように。
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