追悼・陳舜臣さん 『神戸 わがふるさと』
神戸はまちがいなく私の故郷である。その故郷は二十世紀になって、三たび大きな災厄に遭っている。一回目は昭和十三年の大水害で、神戸は泥のまちとなった。流失または全壊家屋七千、浸水家屋二十二万、死傷行方不明三千七百人だった。二回目は神戸に限らず、日本の主要都市がそうであるが、アメリカ空軍による空襲であった。昭和二十年三月十六日と六月五日の二回で、文字通り神戸は灰燼に帰した。三月の空襲で十年あまり住んだ海岸通の我が家は焼失したのである。
最後は地震である。私は一九九四年八月、宝塚で講演中に脳内出血で倒れ、五ヵ月入院していた。退院して四日目に地震に遭った。
多くの人たちに援けられ、私は慟哭の世紀を生き抜いている。
第3部には、震災直後1月25日の神戸新聞朝刊1面に掲載された「神戸よ」が収録されている。
神戸よ
我が愛する神戸のまちが、潰滅に瀕するのを、私は不幸にして三たび、この目で見た。水害、戦災、そしてこのたびの地震である。大地が揺らぐ という、激しい地震が、3つの災厄のなかで最も衝撃的であった。
私たちはほとんど茫然自失のなかにいる。
それでも人々は動いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに動いている。亡びかけたまちは、生き返れという呼びかけに、けんめいに答えようとしている。 水害でも戦災でも、私たちはその声をきいた。五十年以上も前の声だ。いまきこえるのは、いまの轟音である。耳を掩うばかりの声だ。
それに耳を傾けよう。そしてその声に和して、再建の誓いを胸から胸に伝えよう。
地震の五日前に、私は五ヶ月の入院生活を終えたばかりであった。だから、地底からの声が、はっきりきこえたのであろう。
神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢見た神戸では ないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、あたたかみのあるまち。自然が溢れ、ゆっくり流れおりる美わしの神戸よ。そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。
昨年6月には神戸のメリケン波止場に「陳舜臣アジア文藝館」がオープン。
六甲山の歩く歴史辞典M田さんが当番をされている日もあると聞いているので、行こう行こうと思いながらまだ行けてないのだけれど。
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