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『日本人は「食なき国」を望むのか ―誤解だらけの農業問題』

 この国は、「資源がないから工業立国に」と言って、一次産業を二の次にし、食糧はせっせと輸入してきた。
 
 けれど、化石燃料を無駄に使って海の向こうからはるばる運んでくるよりは、地産地消する方がはるかに合理的だよね。
 いや、そんなことより、食べ物は自分のカラダを作るもの。何より安心安全が最優先されるべきで、昨今頻発する産地偽装などを見ていると、信頼できる“顔の見える”範囲で手に入れるのが一番だということは自明のこと。
 さらに、なんだかきな臭い情勢になりつつある今、食糧自給率を高めることは、国防の基本ではないのか。有事の際に敵国に食糧を送るほどお人よしの国などあり得ない。日本と言う国の特性を考えれば、軍備を増強するよりは憲法9条を守り抜いて「戦争放棄」を国際社会で明確にアピールし、それでも何か起きた時のために国民を飢えさせないための食料自給は非常に大事なこと。

Syoku_naki今、「農」をめぐる問題は重要な局面にあると思う。TPPもしかり、国際情勢もしかり。農協改革、特区制度…
農民だけの問題ではない。食糧生産に関わることなく、一方的に消費するだけの都市住民こそ危機感を持って考えるべき問題だと思う。
で、この本。
「万人の命の根幹である農業をカネの亡者やハゲタカファンドの餌食にするな!」
企業化、大規模化ではなく、小規模で永続的に取り組む農業の重要さを説いている。必読の一冊。


『日本人は「食なき国」を望むのか ―誤解だらけの農業問題』
山下惣一 著
家の光協会 刊
2014年10月 初版発行

「はしがき」から
(略)「日本の農業は零細だからダメだ」とみんな思い込んでいる。これが誤解だらけの農業問題の誤解の最たるものだ。私はそう思う。「農業が小規模ではコスト高になって、消費者負担が重くなる」という意見がある。たしかに小規模は大規模と比較すれば生産コストは高い。しかしコストが高いからといって高く買ってもらえるわけではない。ということは消費者の負担にはなっていない。
 一方、大規模農業はもはや補助金なしでは成立しない時代に入っている。補助金は税金だから国民負担だ。農産物を安く買えたとしても別途に税金でも負担しているわけだから、むしろこっちのほうが高くつく。目からウロコを落としてほしい。
 さて、考えてみれば「日本の農業はダメだ」といい続けてきたのは、ほかならぬ農林水産省である。

もっといえば省内の「構造改革派」と呼ばれる勢力である。「構造改革」とは「ヒト・モノ・カネを効率の悪いところから効率の良いほうへ移転させること」だから、これを農業に当てはめると、小規模、兼業、自給などの零細な農家を淘汰して大規模農業を育成するということになる。半世紀以上にわたってその政策を進めてきた成果が、ほかでもない農業・農村の惨状である。行き詰ったのは農政のほうなのだ。そしてついに農業の生産主体の選手交代を迫ってきた。農民に退場してもらって企業に農業を委ねようという動きになってきた。企業がやればうまくいくかのような幻想がふりまかれているが、衣の下の鎧で狙われているのは「農地法」と「漁業権」である。早い話、戦前への回帰だ。新しい地主と羽織漁師(網元)の誕生となろう。そのため農協や農業委員会など抵抗勢力つぶしが始っている。そしてTPP(環太平洋連携協定)への参加こそ農政大転換の絶好のチャンスなのだ。
 もし、構造改革が成功して利潤追求目的の企業農業が農業生産の主体を担うようになったとしたら、日本は農業はあれども「食なき国」になる。私はそう思っている。世界市場相手の農業は国民生活とは関係ないからである。農業大国アメリカがすでにそうなっている。国民の7人に一人がSNAP(補助的栄養支援プログラム)で政府から1食につき140円程度の補助金をもらってジャンクフードで命をつないでいるのだ。超高齢化で年金生活者が急増し、しかも年金の減額が避けられないこの国の近い将来を考えてみるがよい。それでいいか。
 一方、国連は今年(2014年)を「国際家族農業年」と定めて、各国政府に家族農業への投資と支援を要請している。報告書の日本語版『家族農業が世界の未来を拓く』(農山漁村文化協会)によれば、「家族農業」とは「家族の労働力を主に用いて所得(現物・現金)を稼ぎ出している農業」と定義されている。当然、小規模経営となり農外就労(兼業)を伴う。
 私は家族農業を「小農」、企業農業を「大農」として、その違いを面積や経済規模ではなく「目的」で区別してきた。小農の目的は「暮らし」であり、大農は「利潤」だ。日本は99%小農の国、世界に冠たる家族農業の国である。農地解放でそうなった。
 では、いまなぜ「家族農業」なのか、以下の5点に要約できる。(1)世界の農業の土台であり90%以上を占めている。(2)世界の飢餓の解決にはこれを支援するしかない。(3)小規模経営は大規模より効率的で生産性が高い。(4)多くの人々にとって故郷であり、民族の伝統文化の継承者である。(5)農業の専門特化はリスクが高い、多様化こそ回避の道だ。
 かつては世界の農業生産を拡大し、自由貿易を促進すれば飢餓は減少すると考えられていた。しかし一向に改善されず、現在は8億4000万人にもなるという。その事実と反省から、飢餓人口の主体である途上国の零細家族農業への直接的な投資と支援を呼びかけているわけだ。
 一方、先進諸国では自由貿易の進展で農産物価格が下落して農業だけでは生活ができなくなった。政府が農家に直接カネを支払う「所得補償」が農政の柱に据えられ、もはや補助金なしではどこの国の農業も成り立たない時代に入っている。補助金は大規模農業に手厚いため、就業機会の多い先進国では急速に兼業化が進んだ。日本では兼業農家は「悪」のようにいわれるが、これは時代の流れなのだ。
 たとえば農業超大国アメリカでは農産物販売額が年間250万円(1ドル100円換算)以下が全農場の67.8%(2007年度)を占める。この層は日本でいうところの兼業農家だと考えられる。EUも似たような状況で、オランダ、イタリアがとくに農外依存率が高い。
 私は昨年(2013年)ロシアへ「ダーチャ」体験に行ったが、都市住民の70%が郊外にコテージ付きの自給菜園を持ち、ロシア全体の消費量のうちジャガイモの90%、野菜の70%などを生産し、「家庭菜園」が人類を養える実践例として注目されている。ソ連邦崩壊時に餓死者が出なかったのは「ダーチャ」の力だといわれている。大規模化、競争力の強化だけが農業の未来ではない。
 とりわけ日本の場合、この地形、この風土の中で小規模農業こそが国土を守り、農業の土台を支えてきたし、いまも支えているのだ。もっと評価されるべきだ。
 国連の報告書は、「多くの国では、小規模農業の役割を考慮せずに、食糧保障を実現することはできないだろう」といい、「小規模農業が社会文化的にも、政治経済的にも、重要な存在であることが国家によって承認保証されることが求められる」として、「小規模経営投資国家戦略」の策定を提案している。
 本書は私の「小農擁護論」である。小規模農家に自信と希望を持ってもらいたくて、そしてそれ以上に、消費者のこの国の家族農業への理解と支援を願って書いた。


第1章 農業はバクチじゃねぇんだ ―カネと農業
P34
 規制は多くの場合、社会的弱者と公益を守るために設けられている。これを緩和、撤廃するということは強い者勝ちの弱肉強食の世の中になるということである。そして、農業における最大の規制は「農地法」である。これが農業への自由参入を妨害しているから、これを骨抜きにしようとする圧力は「農業ブーム」によって強まるだろう。
 そのためには一方で現在の零細な家族農業ではダメなのだというキャンペーンを展開する必要がある。農村の高齢化、後継者不足、耕作放棄地の増加は恰好の攻撃材料なのだ。
(略)
 昔もいまも農業構造改革論というのは風土、地形を無視し、農業を農村や農家から切り離して論じているわけで、だからこそ自由な絵が描けるわけだ。たしかに絵は美しく魅力的なのだが、これを「画餅」とか「机上論」とかいうんだよな。


P40
家族農業と企業農業は似て非なるものなり

同じ「企業的農業経営」でも、農家と株式会社が目指すところは、からっきし違うと思うんだがな。

 農家が企業的農業経営を目指すのと、株式会社が農業を企業的に経営するのとは同じなのか、それとも違うのか。考えてみたい。
 農業も企業的にやれば儲かるとか、企業参入で農業は活性化するなどの論調が「農業ブーム」と共にのさばってきて、オレはきわめて面白くない。はっきりいってムカつくので、入れたばかりのインプラントの歯で噛みついてみるぞ。
 「企業的」は一般に「営利目的」と同義である。つまり「カネ儲け」が目的というわけだ。たしかにオレたちが農作物や家畜を育ててそれを売るのは「カネを得る」ことが目的である。これをもっと合理的かつ大規模にやることを「企業的」というのなら両社は同じである。だから「営利目的では農家も株式会社も変わりはない」といわれれば、ま、それはそうかもしれない。
 ところが、同じ目的で農業をやるのならどっちがやっても同じ。そうなるかといえば、これは違うんだなあ。ここのところを混同してはいけない。
 では、この両者で何がどう違うのかといえば、「営利目的」の目的が決定的に違うのだ。株式会社が純粋に営利を目的とした組織体であるのに対して、農家が企業的農業経営を目指すのは、その地で農業を継続する目的のためである。農家の場合は「営利」は最終目標ではないのだ。な、そうだべ。
 ビジネスは人口が増え、経済成長が続くところでこそ成立する。だから企業は活動拠点を次々と移していく。田舎から都会へ、地方から中央へ。おそらくこれからは中国やインドへ移っていくことだろう。国家も民族も関係ないのだ。そしてその意思決定の核となるのは収支、すなわちマネーそのものだ。
 一方、農家が企業的経営を目指すといっても、普通は隣の村へすら移動しない。近年は受託している水田が一市六町村にまたがるというような大規模な水田農家や法人が出現しているが、この形態は相当に無理があり永続的とも企業的ともいえない。まして、外国で新規就農しようという人はいないだろう。
 つまり、農家の場合はふるさとに住み続けていくためにこそ企業的農業経営を目指しているのである。それゆえに良いところだけのつまみ食いの「食い逃げ」は許されない。不採算部門であっても、山林も棚田も傾斜地も維持していかなければならないのである。ここのところが家族農業と企業農業の決定的な違いではないか。オレはそう考えるがどうだい?つまり、家族農業は地域社会、環境、文化などの担い手であるということ、いや、むしろ農業はその手段であるということだ。けっして農業が目的ではないのだ。
『農業は「株式会社」に適するか』(宮崎俊行著、慶應義塾大学出版会)という本がある。著者は「日本農業法学会」の会長であり、その立場から株式会社の農業参入への反対論を展開されている。2001年の出版だが、いまこそ論じなければならないテーマだろう。
 この本で著者は「株式会社は、『魂も肉体もない』(中略)会社の意思決定・業務執行が(人間から)完全に絶縁されている法人の典型で(農業の)事業主体または農用地の所有主体として最もふさわしくない法人である」と強く断じておられる。(略)
 著者はこう断言する。
 農業をやる資格があるのは人間だけだ―。
 洋の東西を問わず、農業の担い手が家族農業中心であるのはそのためなのだろう。なによりも人類の生存と共に続く「永続性」が最優先されなければならない。次いで安定安全だろう。けっして一時的な成長や拡大ではない。
 株式会社は家族農業と比較して安定度でも永続性でも劣るのである。世界一長寿とされている日本の企業の平均寿命は40年、100年以上続いている企業は1.6%。80%が40年以内に消滅している(『百年続く企業の条件』帝国データバンク資料館・産業調査部編、朝日新書)。つまりは創業者一代限りのオーナー企業が圧倒的に多いということだ。それほど消耗の激しい世界なのだ。なんせ商家は三代続けば「老舗」だが、農家の三代は「新家」だからな。
 もちろん農業への企業参入も農家との連携もあってよい。生協や病院の農場経営もいいだろう。
 市民農園も日曜農業もいい。いずれにしても農業をやるのは人間であり、その主体は家族農業であるということだ。同じように見えても株式会社がやる農業と、農家が営む農業は似て非なるものである。けっして同じではない。


第3章 美しい農の風景はカネでは買えない ―環境と農業
P126
(略)直接カネにはならないが、将来につながるような仕事、山の手入れ、田んぼの排水、棚田の周辺のヤブの伐採などなど。このような仕事をオレの在所では「良か仕事」と言うのだ。
 野菜を植えつけたり、ミカンを出荷したりするのはカネを稼ぐために「必要な仕事」だ。しかし、これをやるとき「良か仕事」をしているという自覚はないし、まわりにもそうは映らない。ところが、杉や檜の間伐や枝打ちをしていると「わあ、良か仕事しとるねえ」と人も言うし、自分でもそう思う。これは何故だろう?オレはずっとそのことを考えてきた。
 カネにならないものはカネでは買えない。売買できない。これが公益ではないのか。赤トンボが群れ飛ぶ夕焼け空は売り買いできない。太陽、月、自然、景色、空気、水……自分の利益だけではなく、仕事の成果として公益を豊かにするものを「良か仕事」と呼ぶのではないか。
 近代化とはこの公益を私益化することなのだ。できることなら太陽も月も景色も空気もカネ儲けの道具にしたいと思っている連中がひしめいており、それを可能にすることを進歩、発展といっているわけだ。だから時代が進歩、発展するほどに公益は貧しく細くなり、人々は不幸になる。
 ところが農業の世界は違う。カネにならない仕事によって農業の土台が支えられ、公益が守られ、それに寄与することを「良か仕事」とする感性がまだ残っているのだ。そして、カネに代えられない、カネで売買できない、つまり近代化できないものだけが未来に残っていく。このことこそが、それぞれの国や地域に損得勘定を超えて農業が存在しなければならない究極の理由のはずである。な、そうだべ!


ぜひご一読を。

■これまで読んだ山下さんの作品
小農救国論
安ければ、それでいいのか!?
にぎやかな大地
食べものはみんな生きていた
減反神社

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コメント

農業はこれから
水栽培だと思う。

今後、地球規模で
きれいな空気も水も簡単には手に入らなくなってくる。
なんか寂しい感じがするけど…

投稿: 同人 オバカッチョ | 2015年2月24日 (火) 16:43

土にはこだわりたいですけどね…。
人間も、虫や鳥や動物たちと同じで、
土の上で生まれ生き死んでいくものでありたい。

地球規模でいろんな汚染がこのまま続けば、
本当にそうなってしまうかも…
どこかで歯止めをかけないと。

投稿: にゃみ。 | 2015年2月24日 (火) 20:01

農業は辛い労働なのに、金銭的には儲からないのは事実。
天候の影響も強く受ける。
生きた植物と日々向き合って収穫までこぎつけるのは、大変な労力である。
定期的な休日などは望むすべもない。
農業を生業としていた親戚や知り合いが次々縮小し、
次世代は安定した職業のサラリーマンになっていく例をいくつも見てきた。

お米を作った田んぼは…マンションや医大が建って、鉄道が走る。
彼らは土地を売って億万長者になった。
でも、生活はつつましやか。
少し残った田畑で作るモロコシ、トマト、きゅうり、豆やお米は実に美味。

代々の農家に次世代に繋がる若者が育たない社会になってしもうた。
この現実は痛い

投稿: 同人 オバカッチョ | 2015年2月25日 (水) 16:45

農業はたしかにきつい職業だと思うけど、
国を護る第一のもの。

サラリーマンが安定していた時代はもう過ぎ去ろうとしているし、自然とともにある生き方に改めて注目が集まっているとも感じます。

気候変動でこれからさらにたいへんなことになりそうだけど、死にかけた国土をよみがえらせるために、ちょっとずつでも耕していけたらと思うんですよね。

日本でもダーチャみたいなものが広がればいいと思う。

投稿: にゃみ。 | 2015年2月25日 (水) 21:11

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