« 苦楽園口のパン屋さん2「リョウイチヤマウチ」 | トップページ | 「内田樹が語る『街場の戦争論』~グローバリズムと憲法九条~ 」 »

『養老孟司の大言論I 希望とは自分が変わること』

養老孟司さんが季刊雑誌『考える人』に9年間に渡ってKibo_yoro連載されたものをまとめた「大言論」シリーズの第1巻。
「考えるということ(序章)」にはじまり、「田園都市とイギリス人」「コスタリカと生物多様性」「島根のやまあいを歩く」「紀伊半島は広い」「考える田舎」「京都というところ」と、紀行的な章が続き、さらに「「読む」とはどういうことか」「スロー社会」「ただの人」「エリートとはなにか」「個人主義とはなんだ」と続く。
非常にスリリングで面白い一冊だった。
あとの2冊(『嫌いなことから、人は学ぶ』『大切なことは言葉にならない』)も読んでみたいけれど…


『養老孟司の大言論I 希望とは自分が変わること』
養老孟司 著
新潮文庫
2014年2月 初版発行

★刊行記念対談 ×堀江貴文
 …ココ!
★【養老 孟司】正しいと考えても、3分の1に危険性!
 …ココ!

極にゃみ的に気になったところを少し抜粋。

「考えるということ」 から
 この私という、「ごく狭いもの」をあえて立てているのは、脳の空間定位領野の一部である。(略)
 でも人の意識は、自分の周囲の空間を「環境」などと呼び、あたかも自分ではないように語る。環境「問題」を作り出すのは、人の意識であって、そうに決まっているではないか。「考える」ことは、自分の意識の中に埋没することではない。そこからなんとか出ようとする作業なのである。私はそう思う。

「田園都市とイギリス人」から
 乱暴に言おう。世界は二つに分かれている。同一性が瀰漫する場としての意識=言葉の世界と、万物が流転する意識外の世界。シニフィアン(記号表現)としての世界とシニフィエ(記号内容)としての世界といってもいい。言葉はまさしく両者をつなぐ。一つの言葉が両者を示すのである。

「コスタリカと生物多様性」から
 コスタリカのエコ・ツアーは、どれもそうだが、多少の危険が伴う。安全性の限度が、おそらく日本では許容されない範囲に、ゆるくとってあると思う。危険はもちろん自己責任だから、私は個人的にはなんとも思わない。しかしコスタリカとまったく同じことを日本でやろうとすれば、たちまち安全問題で引っかかるに違いない。現代社会で「自然に親しむ」ことの難しさは、こういうところにもある。海外で事故を起こせば、安全性への配慮が欠けていたという批判が必ず出る。しかし九月十一日のテロ事件はどうか。地下鉄サリン事件はどうか。ああいうことは田舎にはない。そう思えば、都会が安全だというのも一種の神話である。「安全だと思っている」に過ぎない。エコ・ツアーなら、たとえ死者が出ても一人あるいは数人だろうが、都会はまとめて殺す。

「島根のやまあいを歩く」から
悪い例にして申し訳ないが、広島市は山の手入れが悪い。日本中同じで、都市の近くはおおかたそうなっている。都市を家だとするなら、裏山は庭である。家をきれいにするなら、同じように庭をきれいにして当然ではないか。庭つまり裏山の手入れが行き届いていない都市は、しばしば都市の建設ばかりに熱心である。ここには自然と人工の、人々の頭のなかでのせめぎあいが歴然と見えている。自然を重視して都市を無視するのが間違いなら、都市を重視して自然を無視するのも間違いである。両者がちゃんと立つ。そういう社会システムを構築するのは、じつは容易ではない。
 いわゆる近代化の根本には、都市化の思想がある。それを我々は進歩と呼び、近代化と呼び、合理化と呼んできた。こういう価値観を含んだことばは、おおかた嘘である。だから私はそれをむしろ脳化と呼ぶ。脳化は意識化である。意識はヒトの脳の典型的な産物である。

「ただの人」
P198
 ところで「ただの人」は、なぜ状況によって錯乱するのであろうか。それが権力の怖いところだと、私は思っている。人間には権力欲は平等に与えられている。脳の構造がそうなっているに違いないのである。なぜなら人間は、群れを作って、社会的生活をする動物だからである。そこではどうしてもボスが発生する。ボスは世襲ではないから、ボスになろうという欲が欠けたサルは、子孫があまり残らなかったに違いない。もちろん、そういう欲のないサルが絶えず発生するという機構が、論理的に考えられないわけではない。議論の都合上、ほとんどの人には権力欲があるとみなしておこう。
 ヒトの権力欲は、ただし、じつにさまざまな表現をとる。それが正直に出るのが政治の世界で、これはだれにでも見えるから、いまでは意外に問題が少ない。独裁者がいたところで、フセインとか、金正日とか、世界でその名前を挙げることができる程度に、知れ渡ってしまうからである。民主主義とは政治権力を徹底的に公開してしまった制度なのである。だから公開でないところは、たちまちわかってしまう。
 経済をいうなら、儲けたほうが勝ちで、その根底は欲であろう。大分儲けたから、もう会社は潰した。そんなことをいう社長はあまり見ない。どこまでも儲けようとする。これも権力欲の変形であろう。お金があれば自由がきく、「思うようになる」と思うからに違いない。この「思うようにしたい」欲を、私は一般的に権力欲と名づける。

P205
 欲をいうなら、国家百年、千年の計は、君主つまり天皇陛下の下で、少しでもやってもらえればと思う。(中略)
現役の首相は忙しくてたまらないであろう。それなら長い目で見た日本の将来、そんなことに政治家は頭が回らないはずである。じつは日本の将来にとって大切なことがたくさんあるはずで、いまの日本はそれを考える余裕があると私は思う。環境問題はその第一であろう。こういう問題は、目先がどうのこうのではない。しかし着実に資料を集めて、準備しておくべきことなのである。その意味で、長い先のことを考えるには、世界で一番古い家族をトップに立てるのが、まさに適当であろう。

|

« 苦楽園口のパン屋さん2「リョウイチヤマウチ」 | トップページ | 「内田樹が語る『街場の戦争論』~グローバリズムと憲法九条~ 」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 苦楽園口のパン屋さん2「リョウイチヤマウチ」 | トップページ | 「内田樹が語る『街場の戦争論』~グローバリズムと憲法九条~ 」 »