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『聖地巡礼ビギニング』

聖地巡礼ライジング  熊野紀行』がことのほか面白かったので、Seiti_beginning前作のコチラも読んでみた。そもそもの発端は2010年に発行された『現代霊性論』から始まっているようだが…
「まえがき」で内田樹氏が

 あまり指摘する人がいませんが、人間というのは移動しながらおしゃべりをしていると、「突拍子もないこと」を思いつくという傾向があります。(略)ふだんならまず思いつかないような「へんなアイデア」が口を衝いて出ることがあります。

と書いておられるように、理路整然、というよりはもう少し自由な話の流れ、が展開していて、とても面白かった。

『聖地巡礼ビギニング』
内田 樹・釈 徹宗 著
東京書籍 刊
2013年8月 初版発行


例によって極にゃみ的抜粋を…。

P14
なぜいま、「聖地巡礼」なのか?
釈  (略)この企画は僕の中で社会がちょうど曲がり角に来ているのではないか、という思いが発端にあるんです。そうした社会の変革期には、昔から「ええじゃないか」みたいな、聖地を目指す宗教ツーリズムが沸き起こりました。現代でも何かが起きるのではないか、そんな予感の中、東日本大震災という事態に直面した。
 もしかしたら、いまの日本人に必要なのは、傷ついた人々や悲しんでいる人々を支える聖地の持つ力じゃないのか。そんな視座もあって、さらに宗教的な場への思いを強くしてるんです。(略)
なすべきもない悲しい出来事を求心力に変える装置って、聖地以外にないと思うんです。(略)
その土地に眠っている霊性を感じる、現代人でも無意識に感じていることを、あえて意識化させていくような作業をしていく必要があるんじゃないかと。

内田  それは日本的霊性を再生賦活させる作業ということですね。

P75
内田  (略)縄文海進期のときに海水が低地を覆ったときに、台地が海に突き出す格好になりますよね、その海に突き出した突端は中沢新一さんのアースダイバー理論によると特権的なトポスであるらしい。古代の日本語では異界との境界を表す言葉は「サッ」という音を含んだそうなんです。「境」も「坂」も「崎」も「岬」もみんなその音を含んでいるから親族語なんです。その海と陸が交わる場所が、同時に異界と交流できる特権的なトポスなんです。ですから、縄文時代に岬であった場所に神社仏閣があり、墓地があり、近年では大学があり、病院があり、ラブホテルがある。つまり、異界と現世を行き来するゲートが開くのが岬なんですよ。東京タワーの建っている場所の話が前に出ましたけれど、『アースダイバー』によると、東京タワーが建っているのも「芝の岬」、落語の「芝浜」のあたりですね。岬ですから当然異界との交流点であり、熊野から続く黒潮での海民たちの交通路の要衝だったそうです。
釈  今回の上町台地はその典型です。だって岬みたいな台地がそのまま残ってますから。普通はもうちょっと入り江みたいにジグザグになるんですけど。いま、内田先生がおっしゃった異界とのゲートとして一番有名なのが四天王寺西門なんです。

P83
内田  中央政府の権力基盤と、天皇制の幻想的な権力基盤て違うんですよ。後醍醐天皇の革命を論じた網野さんの『異形の王権』でわかるとおり、遊行の民、ノマドは伝統的に天皇の保護を受けるかたちで存在してますからね。
釈  そうですね。写し鏡のようになってますからね。
内田  彼らのある種の自立性、自治権を天皇が担保する。その代わり、天皇に対して忠誠を尽くす。行政機構を迂回しないで、ノマドたちと天皇がつながる、そういう構造があったんじゃないですかね。
釈  天皇家というのは、境界線上の人間に常に目線を配る存在なんですね。

P303
釈  (略)宗教の修業において、睡眠をコントロールしたり、食事をコントロールしたり、ずっと歩かされたりすると、変性意識が大きくなって、ある種の人格転換が起こりやすくなってくるんです。となると、そもそも宗教的な体験とマインドコントロールや洗脳はどう違うのか、今日はそんなことを考えながら歩いていたんです。三輪山登拝を毎日やらされたら、かなりコントロールされやすい状態になる気がします。
 さて、このふたつの違いですが、ひとつは「人格を大きく変えることを目的で歩く」のと、「コントロールするために負荷をかける」という相違があろうかと思われます。目的か手段かということですね。


P304(三輪山に登ったあとに)
内田  晴れ晴れしましたよ。
釈  憑き物が落ちたみたいな。山に登るときは、ふるまいに自信もないし、ただなんとか無事にたどり着きたいといった気持ちが先行して、次第に謙虚な態度になる。平地に戻ったらまた傲慢になってしまうんですが(笑)、山に登っているときは頭を下げざるを得ない。畏敬の念を持たざるを得なくなる。
内田  わずかなことでズルッと滑って足を折ったり、沢に落ちて頭をかち割ったり、そういうリスクとだって隣り合わせですからね。だからいま、こうやって元気に登って下りてこられるというのは、ああよかった、ありがたいことだった、と思うわけじゃないですか。当然腰は低くなりますよね。
釈  山の機嫌を損なうと、ひどい目に遭うんじゃないかという気になりますよね。それに、ちょっとハードな修業などの「宗教的行為」を実践しようとすると、自分のためだけに持続することはきつくなってくる気がします。長く登っている人って、意外と自己の利益や目的のためだけに続けているんじゃないのでは。
内田  なるほど、五穀豊穣とか、世界平和とか。
釈  初めの動機は単純なものでも、長く続けているうちに、自分のためだけじゃなくなっていくのではないでしょうか。

あとがき から
(略)
 2011年、東日本大震災が発生した際、80歳の詩人・高良留美子氏は「東北の巫女たちよ、シャーマンたちよ、」よみがえって語りはじめよ」と人々に呼びかけた。賢しらな知恵で土地の持つ宗教性を軽視し、その土地を矮小な物語に閉じ込めてしまった我々への警告であった。その土地をデザインできると思ってしまった傲慢への批判である。
 我々は土地の宗教性について語り始めねばならない。魂を揺さぶる語りを、人々を突き動かすような語りを。その営為なしに、我々の社会の成熟性を高めることはできない。
 みんなで聖地へと移動し始めよう。そしてそれぞれがトリックスターを演じようではないか。
  (釈 徹宗 氏)

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コメント

ですね。
すべての巫女たち。
そして霊的能力を眠らせている人たちも目覚めよ。
(あー私も寝てる場合じゃないんだけど…)

投稿: にゃみ。 | 2015年4月 6日 (月) 17:52

>東北の巫女たちよ、シャーマンたちよ、」よみがえって語りはじめよ…

いやいや、日本中の巫女たちよ語り始めなさい…と言いたい。

私たちのすぐそばに普通に座している日本の巫女たちよ
目覚めて…そろそろお花畑も飽きたでしょう。
そして静かに語り始めて!

投稿: 同人 オバカッチョ | 2015年4月 6日 (月) 16:47

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