『鹿の王』
生と死について、こんなくだりがある。
下巻 P304
「この世に生まれて、私だけの、一回だけの人生を生きて死ぬ……。彼が言ったように、私たちの身体は予め死ぬようにできているわけだけれど、でも、私ね、心にとってはともかく、身体にとっては、死は終わりじゃないような気がしてならないんです」
ミラルは、眉をひょいっと上げてみせた。
「彼が前に言ってましたよね、人の身体は国みたいなものだって。ほんとうにそう。
ひとつの個体に見えるけど、実際には、びっくりするほどたくさんの小さな命がこの身体の中にいて、私たちを生かしながら、自分たちも生きていて……私たちの身体が病んだり、老いたりして死んでいくと土に還ったり、他の生き物の中に入ったりして命を繋いでいく。
そう思うとね、身体の死って、変化でしかないような気がしちゃうんです。まとまっていた個体が、ばらっと解散しただけ、のような」
ところで、タイトルにもなっている「鹿の王」とは…
“飛鹿”(作中に出てくる生物)は足が速く、断崖絶壁なども自在に動けるので、めったに襲われることはないが、平地で狼や山犬に襲われると、逃げるうちに群れの中の小鹿が遅れてしまうことがある。そんなとき、群れの中から一頭の牡鹿がぴょん、と躍り出てきて、逃げ去る群れを背に敵と向かい合い、まるで挑発するように跳ね踊ってみせる。
群れから離れた鹿は弱く、体格のいい牡鹿でも狼の群れに勝つことなどできないが、まるで目の前に迫った死を嘲笑い、己の命を誇るように跳ねあがり、踊ってみせるという。
そういう鹿を「鹿の王」と呼ぶが、それを若造が“英雄”と持ち上げて憧れるのは違う、と父は諭す。そのことを述懐している部分の抜粋
P440
「だけど、逃げられない人がいたら?と、おれは父に問うた。逃げ遅れた子どもがいたら、たすけるのが戦士の務めじゃないか、と」
サエが、たずねた。
「……お父さまは、なんと?」
「いきなり真顔になって、言ったよ。 --それは、それが出来る者がやることだ、と」
笑みを消し、真っ直ぐに自分を見つめてそう言った、父のまなざしが思い出された。
「敵の前にただ一頭で飛びだして、踊ってみせるような鹿は、それが出来る心と身体を天から授かってしまった鹿なのだろう。
才というのは残酷なものだ。ときに、死地にその者を押しだす。そんな才を持って生まれなければ、己の命を全うできただろうに、なんと哀しい奴じゃないか、と」
あとがきから
私はどうも、三つぐらい、心に響くものが浮ぶと、物語を書くことができるようです。
『鹿の王』の場合は、「人は、自分の身体の内側で何が起きているのかを知ることができない」ということ、「人(あるいは生物)の身体は、細菌やらウィルスやらが、日々共生したり葛藤したりしている場でもある」ということ、そして「それって、社会にも似ているなぁ」ということ、この三つが重なったとき、ぐん、と物語が生まれでてきたのでした。
“物語”を紡げる人ってすごいなぁ。世界が作れるんだもんなぁ。
| 固定リンク
コメント