『グローバリズムという病』
利益のために国境を越え、世界のどこまでも活動領域を広げるグローバル企業、それらの企業に支えられている政治家、国際競争を克ちぬくことが国益だと信じている官僚たち。彼らが是として疑わない「グローバリズム」というイデオロギーは、アメリカが世界に広めたもの(「グローバリゼーション」とは異なる概念)。本当にいま・この国が志向すべきものなのか?
非常に興味深いテーマをわかりやすく解説した一冊。おすすめです。
『グローバリズムという病』
平川 克美 著
東洋経済新報社 刊
2014年8月 初版発行
グローバル化が進み、日本の経済成長のロールモデルと目されているシンガポール。
F1やカジノを誘致し、海外資本を呼び込み、高層ビルが林立する、見た目はきれいで近代的な国だが、福祉は自己責任の名のもとに切り捨てられ、軍事費がGDPの4分の1を占める軍事大国。GDPこそ世界トップクラスだが、国民の生活不満度が最も高いという調査結果があるそうだ。
ごく一部の富裕層だけが幸せを享受できる国…。
軍需産業を肥え太らせる戦争法案をごり押ししようとする現政権は、まさにそんな世界を目指しているのだろうけれど、それでいいのか。
参考サイト
★「グローバリズムという病」にかかった日本
シンガポールのような国が、本当に理想なの?(東洋経済オンライン)
…ココ!
例によって少し抜粋してみる。
序文から
(略)
リーマン・ショックの前まで、アメリカは見かけの好景気を謳歌していた。もはや景気循環は終わった、歴史は終わったと宣言するものまで現れた。しかし、それはただ、見かけ上の好景気に過ぎなかった。あたりまえだ。資金が株主に流入する仕組みを考え、株価を上げ、市場の資金量を増やすためにお金を印刷する。
こういったことを経済行為というのだろうか。
何もつくらず、何も有用な価値を生み出さないゲームを延々と続けている。
しかし実体の経済はマネーゲームのようなレバレッジは効かない。アメリカの双子の赤字は一向に解消に向かわず、アメリカの株式会社はもはやアメリカ市場だけをあてにしていては生き残れなくなっていた。
(略)
株式会社と同じ頃生まれた国民国家において、歴史上はじめて人口や経済が右肩下がりになるという現象が起きたのである。
この現象は百年単位の緩やかな、惰性的な出来事なので、喫緊の課題として政治課題、経済課題として取り上げられることはなかった。
産業革命以後、国民国家の中につくり上げられたシステムは、ほとんど経済が右肩上がりに上昇しているということを前提としてつくられている。
株式会社はその筆頭であり、年金のシステムも、保険のシステムも、住宅ローンも、カード決済も、経済が右肩上がりであることが前提なのだ。
もし、経済が確実に縮退するのだとすれば、だれも株式を買うという行為に向かうことは無いだろう。今の100万円が、五年後には120万円になるという蓋然性への信憑によって、資本と経営の分離というシステムは担保されているのだ。
成長の止まった国民国家は、成熟国家として定常経済へと向かうはずであった。
しかし、モンスターのように万能性を獲得した株式会社にとって、定常経済は有り得ない環境であった。
世界の人口はまだ増え続けており、地球規模に足場を持つ株式会社が国民国家の殻を破って世界へ出ていくのは、このシステムの必然であったかもしれない。
モノをつくって、市場を迂回して、利潤を獲得するという実態の市場経済とは別の、金利差や、為替変動や、プロパガンダによって利潤を獲得するという金融技術に活路を見出したのも、株式会社というシステムが生き延びていくための狡知であったのかもしれない。
いずれにせよ、右肩上がりの時代に人類の社会に登場した、国民国家と、株式会社という二つのシステムの賞味期限が切れようとしていることは確かなことのように思えるのである。
(略)
本書を書いたのは、株式会社と国民国家が手を携えて発展していた健康な時代が終わろうとしており、株式会社が病としか言いようのない行動をとるようになった背景には何があったのかを、もう一度確認しておきたいと思ったからである。
病識を自覚したならば、それに応じた生き方を選ぶというのは、人間に備わった知恵である。
極にゃみ的に、核心部だと思えた部分。
第2章 日本人の独特なグローバル信仰
失われつつある日本語 P50
(略)わたしは、人間というのは本来的に、ローカルな存在であると考えている。人間の身体は、せいぜい半径数キロメートルの範囲の中で生きていくように設計されている。人間の身体性が持つ限界が告げているのは、その範囲で耕作をし、モノやサービスをつくり、人々と交わり、生活を営んで剰余がないという生き方である。人間には、丈夫な二本の脚はあるが、広大な空を渡るための翼もなければ、海洋を泳ぎ渡る鰭もない。
確かに、文明の進展は、ローカルに閉じ込められていた人間の行動範囲を飛躍的に拡大した。しかし、それを人間の進歩だと読み替えるのはいささか性急ではないかと私は思う。技術の進歩は人間が関与する量的なもの(移動距離や、商品の数や、交換の回数や、情報の量)を格段に増大させた。科学技術の進歩は積み上げ型なので、どこまでも進化し続けることになるだろう。それは自然過程である。しかし、人間の生活は生まれてから死ぬまでの生身の身体性の中に閉じ込められており、無限に成長することはない。
ところが、企業とは生身の身体性のない人格、つまり法人格として、どこまでも肥大していこうとする性向をもってこの世に生まれてきた。
内田樹さんの著作も頻繁に出てくるキーワードだが、「身体性」というものは非常に重要だと思う。身体性を喪失しかけている現代人は、何か大きな間違いや勘違いをしているのだろうと思う。
★同じ著者の作品
『小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ』
『「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ』
『脱グローバル論 日本の未来のつくりかた
』(共同執筆)
★これまでに読んだ“そういう系”の本
『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』
『里山資本主義』
『脱資本主義宣言 グローバル経済が蝕む暮らし』
『脱グローバル論 日本の未来のつくりかた』
『食の終焉 グローバル経済がもたらしたもうひとつの危機』
『「里」という思想 』
『今ある会社をリノベーションして起業する~小商い“実践”のすすめ』
| 固定リンク
コメント