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小説『野火』

大岡昇平の代表作のひとつで、1951年に発表されたフィリピンでのDsc08414_2戦争体験を基にした作品。1959年にも市川崑監督によって映画化されたが、塚本晋也監督が構想に20年を費やし、自主製作映画という形で今夏公開。先日その作品を観て、なんとしても原作を読まねば、と思って紐解いてみた。
バス旅の往復で読書時間がたっぷりあったから、一気に読了したが、本当に素晴らしい作品だった。

『野火』
大岡昇平 著
旺文社 刊
1997年4月 初版発行
※発表の翌年、1952年に創元社から刊行。
 現在は、1954年4月発行の新潮文庫のものが一般に流通。
 旺文社版は、たまたま近所の図書館に蔵書があったので借りたもの。
 レトロ感ある装丁だが、児童書に分類されていて驚いた。

日常的になかなか目にすることのない格調高い文章。少し抜粋してみる。

P57
 死は既に観念ではなく、映像となって近づいていた。私はこの川岸に、手榴弾により腹を破って死んだ自分を想像した。私はやがて腐り、様々の元素に分解するであろう、三分の二は水から成るという我々の肉体は、大抵は流れ出し、この水と一緒に流れて行くであろう。
 私は改めて目の前の水に見入った。水は私が少年の時から聞き馴れた、あの囁く音を立てて流れていた。石を越え、迂回し、後から後から忙しく現われて、流れ去っていた。それは無限に続く運動のように見えた。



P158
 「天皇陛下様。大日本帝国様」
 と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭した。
 「帰りたい。帰らしてくれ。戦争をよしてくれ。俺は仏だ。南無阿弥陀仏。なんまいだぶ。合掌」
 しかし死の前にどうかすると病人を訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、彼は警官のような澄んだ眼で、私を見つめていった。
 「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを喰べてもいいよ」
 彼はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。

(中略)
 しかし私は昨日この狂人を見出した時、すぐ抱いた計画を、なかなか実行に移すことができなかった。私の犠牲者が息絶える前に呟いた「喰べてもいいよ」という言葉が私に憑いていた。飢えた胃に恩寵的なこの許可が、かえって禁圧として働いたのは奇妙である。
 私は屍体の襦袢をめくり、彼が自ら指定した上膊部を眺めた。

(中略)
 私がその腕から手を放すと、蠅が盛り上がった。皮膚の映像の消失は、私を安堵させた。そして私はその屍体の傍を離れることはできなかった。
 雨が来ると、山蛭が水に乗って来て、蠅と場所を争った。虫はみるみる肥って、屍体の閉じた眼の上辺から睫毛のように、垂れ下がった。
 私は私の獲物を、その環形動物が貪り尽くすのを、無為に見守ってはいなかった。もぎ離し、ふくらんだ体腔を押し潰して、中に充ちた血をすすった。私は自分で手を下すのを怖れながら、他の動物の体を経由すれば、人間の血を摂るのに、罪も感じない自分を変に思った。


この作品の中で、熱帯のサバイバルやカニバリズムを描いたシーンより、一番心に残ったのは、帰国後に精神病院に入院しているときの記述。

P200
 この田舎にも朝夕配達されて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人たちを私は理解できない。おそらく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。

P213
 人は死ねば意識がなくなると思っている。それは間違いだ。死んでもすべては無にはならない。それを彼らにいわねばならぬ。叫ぶ。
 「生きてるぞ」
 しかし声は私の耳にすら届かない。声はなくても、死者は生きている。個人の死というものはない。死は普遍的な事件である。死んだ後も、我々はいつも目ざめていねばならぬ。日々に決断しなければならぬ。これを全人類に知らさねばならぬ、しかしもう遅い。

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