『海難1890』
とあるタダ働きの時もらったチケットで公開中の『海難1890』を観てきた。
オスマン帝国(現・トルコ共和国)初の対日親善使節として1889(明治22)年7月にイスタンブールを出航した軍艦「エルトゥールル号」。老朽艦のため航行中のトラブルが多く、11か月に及ぶ苦難の航海を経て来日。明治天皇に謁見、スルタン(皇帝)の親書を奉呈して、ようやく祖国へ戻るべく1890年9月15日に横浜港を出航。
翌16日夜半、熊野灘を航行中に台風に遭い、必死の操船を行うもついに座礁、蒸気機関の爆発により大破沈没。この事故に気づいた大島の村人たちが荒れ狂う夜の嵐の中、決死の救出を試み、村人総出で救助・看護にあたった。
500余名の乗組員のうち、助けられたのは69名。異国の民を救うために命がけの働きをした熊野の人々がいたことは、日本ではほとんど知られていないが、トルコでは教科書にも載っていたこともあるそうな。
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そして、その事件から95年後の1985年。
イランイラク戦争で、フセインによる無差別攻撃開始の通告が行われ、タイムリミットが迫る中、テヘランには取り残された邦人が300名余りいた。
日航機も自衛隊機も邦人救出には向かうことができなかったが、祖国に見放された人々に救いの手を伸ばしたのは意外なことにトルコ政府。ほかの国々がすべて自国民を優先するなか、最後の救援機で異国の民を救った。
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ちなみに…
エルトゥールル号遭難の報を受け、宮内庁が日本赤十字社に医師と看護師派遣を要請。生存者は船で神戸へ輸送され、和田岬の仮病院で治療が行われた。
その後、乗組員らは帝国海軍の戦艦「金剛」「比叡」でオスマン帝国へ送還。翌年、紀伊大島にエルトゥールル号犠牲者の墓碑が建立された。
1985年のテヘラン邦人救出劇のとき。空爆が続く中、フセインが「48時間後にイラン上空を航空禁止にし、以後は無差別攻撃を行う」と宣言。空港には1000人以上の外国人が詰めかけたが、どの航空会社も自国民を優先したため、日本人は脱出の手段がなかった。
日本航空は輸送可能な航空機を持っていたが、組合の反対によって断念、自衛隊機もまた派遣不可能だった。日本は自国民を救出するすべを持たなかった。
以下は映画の話なのでどこまで実話なのかわからないのだけれど、外国人たちが次々と国外退去する中、最後に残されたのがトルコ人たち。タイムリミットぎりぎりにトルコ航空が救援機を飛ばした。攻撃される可能性もある危険なフライトだったが、トルコ航空の操縦士は全員が救援機の搭乗員に志願したとか。
救援機は2機が派遣されたが、空港に詰めかけた人々全員が乗ることができなかった。そんな中、誇り高いオスマン帝国の末裔たちは、「日本人は我々の祖先を救ってくれた」「今ここで困っている異国の人々を救うことができるのは自分たちだけだ」と、限られた席を譲ったとか。取り残された約500名の人々は危険な陸路で2日かけて国境を超えることに。
ところで余談だが、日航ははじめから航空機派遣を拒絶していたわけではなく、チャーター機を飛ばすための準備はしていたらしい。危険なフライトの操縦士として志願の手を挙げた数少ないパイロットの一人が元海上自衛隊の高濱雅己機長。5か月後の8月12日、「日本航空123便墜落事故」で亡くなられた。
エルトゥールル号に話を戻すと、助からなかった乗組員たちの遺体は、遭難現場である船甲羅岩礁を見下ろす樫野埼の丘に埋葬された。翌年、和歌山県知事と有志らによる義金で墓碑と追悼碑が建立され、のちにトルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルク氏が和歌山県に委託して現在の慰霊碑に建て替えた。
遭難事故から121年が経った2011年春、串本町の樫野崎灯台の傍に建つエルトゥールル号遭難慰霊碑に、四人のトルコ人が献花に訪れたとか。
エルトゥールル号乗組員の孫にあたるネビン・セレスさんと曾孫エムレ・セレスさん、そして1985年に邦人を乗せたトルコ航空の救援機のパイロット、オルハン・スヨルジュさんとその妻。
★【紀州を旅する】トルコと日本・友好の原点 串本
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(潮岬) ※2013年7月の熊野旅
(潮岬灯台内部の展示ポスター)
トルコと日本はいろいろと助け合う関係にあって、1999年のトルコ大地震のときには、日本からレスキュー隊員と医師を派遣し、阪神大震災のときの仮設住宅の資材を提供。テヘランからトルコ航空の救援機で脱出した人が義捐金を募って送ったりもしたそう。
東日本大震災のときにも、トルコはレスキュー隊員、医療関係者ら33名を派遣してくれて、外国からの救援隊としては一番最後まで活躍してくれたそうである。
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