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『百年前の山を旅する』

現代文明を遠ざけて、山を歩くこと。自分の力で食糧を調達すること。100nen_mae_2そんなことに取り組んできた著者が、昔の山人、徒手空拳で(?)山に入った先人たちの痕跡に気づき、彼らの足跡を追体験するように歩いた記録。
木暮理太郎と田部重治が100年前に歩いた記録のある奥多摩の笹尾根を当時の装備で歩いた体験に始まり、ウェストンと上條嘉門次による奥穂高岳初登頂(奥穂南稜)、若狭の鯖を背負って鯖街道(小浜から京都)を一昼夜で歩けるのかという実証、上田哲農のエッセイ「ある登攀」に記されている白馬岳主稜登攀の追体験(ダブルアックスではなくピッケル1本、ロープは8mm30m)、200年ほど前、加賀藩が黒部奥山に関する極秘の情報収集を行っていた「奥山廻り」を辿る山旅などなど。
“サバイバル登山家”として、現代文明の便利さに疑問を投げかけた著者によるさまざまな思索が非常に面白かった。

『百年前の山を旅する』
服部文祥 著
新潮文庫 、2014年1月初版発行
(初出は東京新聞出版局、2010年10月)

参考
★服部文祥さんの登山への探究心と、今の環境への疑問点 2010年10月24日
   …ココ!

極にゃみ的に響いた部分を少しだけ抜粋してみる。

「黒部奥山廻りの失われた道」より
P160
(略)奥山廻りの登山は自己表現ではない。もちろんレクリエーションでもなく、それは純粋な使役である。だがおそらく、鹿島槍ヶ岳に立った何人かの江戸時代の人々は、いま私が感じているような登山ならではの高揚感を感じていたのではないだろうか。何かを成し遂げて得た結果は、そのまま行為者を肯定する。山頂はただ単純に登った者を肯定するのだ。それが自分なりの特殊な能力を出した結果ならば、なおさらである。

「火を持ち歩くということ」より
P205
 知恵と機械文明のおかげでできあがった便利な道具を購入し、それを使って登山を快適にすることは簡単だ。だが、便利な道具を使って、体験を濃くすることはおそらく簡単ではない。「便利・快適」の裏には、本来体感すべき経験を捨ててしまうという方向性が含まれているのである。すくなくとも登山においては、テクノロジーの持つベクトルは人の体験を深める方向とは逆に向いている。(略)
テクノロジーは便利だが、思考力を低下させると感じているのは私だけではないはずだ。
 おそらく人間の限界といえる行為ができる人間は人類の一握りで、そういう人だけが、最先端の道具の本当の価値を体感でき、われわれ凡人はただ、便利な道具で得た余裕のなかに存在するだけで、そのぶん知らないうちに本質からは遠ざかっているに違いない。


「文庫のためのあとがき」より
P216
人は特別な存在で平和で健康的な暮らしをする権利がある、というようなことが日本の憲法には書かれている。実際に、そういう権利があると思っている人もいるようだ。
 だが、よくよく考えるとそれは人間社会の中だけの約束にすぎない。私が鹿を撃ち殺すことが許されているのも実は人間社会の約束事だ。鉄砲の所持許可を得て、狩猟免許を取り、シーズンごとに狩猟登録すれば、狩猟鳥獣を殺しても人間社会は咎めないですよ、ということである。対象である鹿やイノシシが、いや、そもそも自然環境すべてが、そんな約束には同意も参加もしていない。約束のすべてが人間社会のなかの話である。そもそもケモノを殺すことに関して「許される許されない」という判断が人間の思考を前提としているかぎり、答えもまた人間の考えに過ぎないのだ。
 人命は重いらしい。だが、壊して機能を止めるのはそれほど難しくない。猟人はそのことを知っている。いのちは儚いことを知っている。ケモノと対峙することで、厳しい自然環境のなかで生きつづけることは、身体が万全に機能し、賢明でありつつ、運にも恵まれる必要があることを知っている。おそらく、100年前の人たちと同じように―

(略)
 そのさきで、ふと思う。現代人も、本当はケモノと同じように生きているのではないかと――。人として最低限の暮らしをする権利がある、というのは言葉の上のまやかしで、突然の凶悪犯罪に自分や家族が巻き込まれる可能性はゼロではない。災害や事故で命を落とす可能性もある。可能性や確率をいうなら、生きている限り死ぬ確率は100パーセントだ。生きる権利があるというのは、不老不死でも神様の保障でもない。単なる人類の希望である。少し前なら私のこういう言いぐさは相手にされなかったかもしれないが、3・11以降、少しは説得力をもつようになった。
 すくなくとも、文明社会の保護を出れば、もしくは文明社会の保護力が及ばないような巨大なエネルギーが襲ってきたら、要するに自然環境を相手にするとき、われわれに生きる権利は保証されていない。生きるために努力することがそれぞれ平等に許されている、という程度である。


いまのこの国では、自然環境からほぼ隔絶された人工的な環境で暮らすことが一般的で、そのことにかくべつの疑問を感じる人はほとんどいないし、改めてありがたいと思う人も稀だろう。蛇口をひねれば飲める水が得られ、スイッチひとつで明かりもつけば快適な空調も作動する。24時間、すぐに食べられる食糧を得ることができるし、自分の足で歩かなくても移動でき、欲しいモノはクリック一つで自宅に届く。けれど、そんな“便利”や“快適”と引き換えに、失ったものや手放したものはたくさんあるのだろう。どちらがいい、と簡単に言えるようなものではないのだけれど。けれど、そんなこんなをもう少し考えてみたらどうだ、と、服部氏の著作は語りかけてくるのだ。

■同じ著者によるこれまで読んだ本
サバイバル登山家』2006年
サバイバル!―人はズルなしで生きられるのか』2008年
狩猟サバイバル』2010年

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