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『東の太陽、西の新月―日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件』

先日観た映画『海難1890』の細部を解説するような一冊がこの本。Higasi_taiyo_nishi_singethu映画では、限られた時間で感動的に話をまとめなければならないため、わかりやすい筋立てになっているけれど、実際には複雑な背景や事情があって、その中であの遭難が起こった。事後の対処も、映画では語られることのない膨大なエピソードがある。それらが資料に基づいてわかりやすくまとめられている。
映画の中で「年増のレディ」と乗組員が揶揄していた「エルトゥールル号」は、極東までの長い航海に耐えられないのでは、と危惧されていた老朽船であったこと、それでもその艦を使わねばならなかった事情なども紹介。
遭難後の対応についても、映画ではひたすら島の村人たちの献身ぶりが描かれているが、実際には5日後には負傷者らは神戸へ移送され、和田岬の施設で宮内庁が派遣した日赤の医療スタッフによって治療が施された。
一方、現地では生存者を神戸へ送り出した後も、膨大な遺体の収容や漂着物の回収などに追われる日々が続いた。日を追うごとに遺体は腐乱し、損傷度は増していったはず。どれだけたいへんな作業だったか。

東の太陽、西の新月―日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件
山田邦紀・坂本俊夫 著
現代書館 刊
2007年9月 初版発行

 最初に救援に当たった大島の村民たちは、自分たちの食糧さえ充分ではないのに、困窮したときのために蓄えている甘藷芋やニワトリをつぶしてまで遭難者たちに食を与え、ほとんど裸で流れ着いた遭難者らに自分たちのわずかな衣料…浴衣や、子どもの着物、女物の単衣まで、ありったけのものを供出するなど、献身的な対応が記録から読み取れる。
荒れ狂う嵐の海に投げ出された人々は、波と岩礁に着衣も(場合によっては肉体も)そぎとられ、ほとんど裸に近い状態だった。
 神戸に着いたとき、生存者たちは着丈の全く合わない浴衣などを着せられ、窮屈そうにしていたという。
 彼らの衣類に関しては、神戸滞在中に「井上商店」が引き受けることになり、県の外務科から「義捐の気持ちを持って半額で」との依頼を受け、「義のためならば」と応じて落札したとか。職人たちは名誉なことと縫製に励み、生存者たちが帰国の途に就く前々日になんとか間に合わせたそうだ。

 1985年、イランイラク戦争の渦中でテヘラン在留邦人を救出トルコ航空のエピソードも詳しく紹介されている。3月に入って戦況が悪化し、12日には首都テヘランが空爆された。
テヘランには、商社員や銀行員とその家族など、約800名の日本人がいて、17日にイランの日本大使館から出国勧告が出された。20日から現地の正月休みに入ることもあって多くの日本人が出国予定でチケットを手に入れていたが、イラクの爆撃によって運航中止が相次ぐなど、なかなか出国できなかった。
 そんな中、3月17日にイラクのフセイン大統領が、48時間後にイラン上空を航空禁止にし、民間機であろうとすべて無差別に攻撃するというとんでもない通告を出した。
これを受けて、日本航空はとりあえずジャンボ機を準備したものの、タイムリミットに間に合わせるには19日午前1時45分までに成田を出発する必要があった。ところが、外務省がぐずぐずと判断をしかねているうちに時間切れとなり、日航機派遣は事実上無理な状況になってしまった(ちなみにこのときの外務大臣は安倍晋太郎氏)。
 もはや日本政府はあてにならないと、現地の野村大使以下大使館員たちは、テヘランに航空機を乗り入れているすべての航空会社に連絡を取り、必死の交渉を行ったが、どこも自国民の脱出で手一杯。逆に「日本はどうして救援機を出さないのか?」と質問される始末。
 その頃、イスタンブールにいた伊藤忠商事の森永堯氏は、東京本社から「オザル首相に頼んでトルコ航空に救援機を出してもらえ」という指示を受けていた。
森永氏はオザル首相がビジネスマンだった時代からの親友だったが、日本人を助けるために自国民を危険にさらしたとなると首相としての責任を問われることになる。当たって砕けるつもりで電話をかけた。オザル首相の元には野村大使からの要請も届いており、救援機を増便することを決断。
 結局トルコ航空は2機の特別便を出したが、二番機がイスタンブールに到着したのは撃墜予告時刻の20分過ぎ。200余名の日本人はきわどいタイミングながら無事に脱出できたのだった。

 一方、救援機に乗れなかったトルコ人が約500名いた。彼らは、陸路自動車でイランを脱出。イスタンブールまでフルスピードで走っても三日以上かかるのに、トルコ政府は日本人を優先して飛行機に乗せたのだ。そして、そのことに対する非難・批判は一切なかったという。映画『海難1890』でもそのエピソードが紹介され、「そのような国民を誇りに思う」と首相が独白するシーンがある。逆の立場だったらこの国はどうふるまっただろう。

 このことを日本の新聞は大きく取り上げたが、マスコミも外務省もトルコがなぜ日本人救援に動いたのか、その理由がわからなかった。朝日新聞は日本がトルコへの経済援助を強化していることなどを挙げて説明したが、これに対し、当時の駐日トルコ大使が投書欄に「純粋に人道的見地から発したトルコ航空の措置を経済協力に結び付ける見方があり、それが貴紙によって報道されたことに深い悲しみを覚えます」との文章を寄せた。
「トルコ航空が今回の措置をとった理由はただひとつ、日本国民が生命への脅威を感じ、そして危険にさらされ、助けを求めていた事態を知ったからであります。トルコ政府は救出の手段を持っていました。そして、迅速な決定と行動に出たのであります。トルコは難儀している人々に手を差しのべたのです。仮に貴国民が似たような事態に直面したならば、同じような行動をとられたことは疑いのないところです」
 はたしてどうだろうか。

 ところで、日本人がトルコ航空に助けられたのはこのときだけではない。それ以前、イラン・イラク戦争が本格化した1980年10月、イランにいた在留邦人は空爆を恐れて国外脱出を図ったが、飛行場は爆撃される危険があったため、陸路でテヘランを出発。昼間は爆撃の危険があるので夜間に、しばらく点灯してはすぐにライトを消して走るという危険な逃避行だった。ようやく国境のエルムズ空港に到着したものの、飛行機はすでに脱出者で満席。しかし、トルコ航空は自国民に優先して日本人の席を確保してくれたことが後でわかったそうだ。
 このエピソードには後日談があり、1999年8月17日、トルコ北西部で大地震が発生。マグニチュード7.4の巨大地震で、死者1万7千余名、負傷者4万人超え、善かい住宅6万6千戸余と想像を絶する被害を出した。余震がいつまでも続き、10月に再びマグニチュード7.2の大地震が起き、トルコが経験した二十世紀最大の天災となった。
 このとき、真っ先に義捐金募集に立ち上がったのが、トルコ航空機で救出された商社マンや銀行マンたち。政府の対応も早く、各国に先駆けて緊急物資や無償援助の提供や、国際緊急援助隊の派遣を行っている。ことに、レスキューチームは地震発生当日に日本を出発、翌日にはトルコ入り、医療チームもその翌日に現地に派遣された。建物倒壊のリスクをチェックする耐震診断専門家チーム、阪神大震災での経験を持つライフライン専門家チームなども派遣されたとか。
 
 エルトゥールル号事件を発端に、利害を超えた善意と善意の連鎖でつながっている日本とトルコ。
本書の「あとがき」から

 経済優先で走ってきた日本は、その過程で自らの利益だけを考え、打算だけで行動する日本人をつくってきた。経済的成功を得るために形作られた競争社会は、人を蹴落とし、傷つけても痛みを感じない人間をつくってきた。私欲を追求する政治家、濡れ手で粟をもくろむ一部実業家、教育現場にはびこるいじめなどはその典型だ。日本人は変質してしまったのだろうか。
 昔の日本人はそうではなかったということをエルトゥールル号事件を通して確認しておきたい。


本当にそう願いたい。

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