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神戸みなとの知育楽座 Part7「みなと神戸名所めぐり」最終回

六甲高山植物園特別開園のあと、メリケンパークで開催された講演会へ。Dsc05052
神戸みなとの知育楽座『みなと神戸名所めぐり!』シリーズ最終回。
(参加するのは今回が初めてだけど)
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メリケンパークにある海洋博物館の脇にある「海洋博物館ホール」が会場。

「六甲・摩耶の観光開発の歴史」と題し、シムマラソン発案者で実行委員長の前田康男氏が講演。
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元々「ハイキング」「(レジャー的意味合いでの)登山」という概念がなかった日本では、(信仰としての登山や山仕事を別にすれば)明治6年に“お雇い外国人”3名と日本人1名の4名パーティがピッケルや登山靴を用いて六甲山に登ったのが近代的登山の始まり。

その後、明治34年にグルームさんが山上に日本初のゴルフ場を作ったり、居留外国人たちが登山愛好会を結成して六甲山で山登りを楽しむようになった。
山上には外国人らの別荘がたくさん建てられ、「外人村」と呼ばれて賑わうように。

大正期頃からは日本人も登山をするようになり、大正2年に初の六甲登山地図が発行された(神戸徒歩会が会員向けに作成・配布)。
大正13年に初の登山ガイドブック『近畿の登山』が発行され、翌大正14年には摩耶ケーブルが開業。以後、六甲山は大衆化の時代を迎え、阪神電鉄・阪急電鉄による壮絶な開発競争に突入していく。

六甲山上が絶頂期となるのが昭和7年~13年にかけてで、山上周遊道路が敷設され、植物園やホテル、別荘などが建設され、行政も新聞社やレコード会社までもがこぞってPR。絵葉書、観光パンフレット、ガイド本などが多く発行されたほか、六甲山をテーマにした歌のレコードも発売されるほどであった。

好況が暗転するのが、日本中が戦時体制に突入した昭和15年~20年。ケーブルやロープウェイは廃止、山上施設は閉鎖された。
「心身のリフレッシュ」を謳っていたガイドブックなどは「心身の鍛錬」に変わり、軍事機密法の制約によって山の標高は記載されず、インフラ設備や重要地域はブランクにされた。
昭和16年発刊の『ハイキングコース案内・近畿編』には、「防諜上、山の標高は記載を中止し、又、軍機保護法に抵触すると思われる所は全部○○○を使った。記事は大阪府特高課、写真は大阪府外事課の検閲を了したものである」と書かれている。
昭和17年発刊の『近畿ハイキング探勝コース』は、冒頭にハイキングの心得、が書かれ、1ページ目に「憲兵司令部御検閲済」と記載。

神戸ゴルフ倶楽部は受難の施設。「ゴルフは非常時にあるまじき贅沢」、「敵国のスポーツ」とされ、「打球場」と名称変更。
挙句に昭和17年には閉鎖となって、グリーンは麻酔薬用の朝鮮朝顔の栽培や、ジャガイモ畑に転用された。

ケーブルやロープウェイも不要不急と認定され、撤廃が決定。金属供出のためもあり、昭和19年には六甲ロープウェイ、摩耶ケーブルの撤去が完了。
六甲ケーブルは人手不足もあって撤去工事が遅れているうちに終戦を迎えた。

昭和22年から復活期となり、ホテルやゴルフ場も順次再開。
昭和30年には摩耶ケーブルが再開、奥摩耶ロープウェイが開通。
昭和40年代頃からは高度成長期を迎えて企業の山の家などが建設され、「六甲山銀座」と呼ばれるにぎわいを取り戻した。

バブル崩壊、リーマンショック、さらに阪神大震災による打撃などで低迷期に入っているが、六甲山整備室の設置、六甲摩耶活性化プロジェクトなどの取り組み、摩耶山リュクサックマーケットやシムマラソンのようなイベント開催など、多様な活性化策が実施されている。

終了後にお声がけいただいて気づいたのだが、KissFM KOBE 4 SEASONS」サウンドクルーの中野耕史さんもいらしてた。
今こっそり進めてるプロジェクトの関係者さんとか、某KB市関係の方とか、いろんな人にお会いしてびっくり。
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ハカセならではのコレクションも展示。やっぱり“歩く六甲山辞典”だった。

★神戸みなとの知育楽座
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