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『江戸日本の転換点  水田の激増は何をもたらしたか』

Photo「瑞穂の国」と言われる日本。国土の一面に緑豊かで美しい水田が広がる農業国であり、鎖国していた江戸期は、完全自給が確立された「持続可能」でエコロジカルな時代であった、というイメージが一般的ではないだろうか。
そうやって江戸時代から長年保たれてきた環境が、近代化に伴う開発によって破壊されていった、とも思っていた。

だが、江戸時代の水田農業が、本当に豊かな生態系を維持するための、理想的なものであったのか、ということを当時から伝わる文献をもとに検証し、まとめた一冊。

『江戸日本の転換点  水田の激増は何をもたらしたか』
武井弘一 著
NHK出版 刊
201504月 初版発行

いろいろと、これまで持っていなかった視点が面白かった。

Dsc_2832_117世紀は、日本中で新田開発が積極的に進められ、平野部は言うに及ばず、山村に至るまで、開墾が可能な土地はどんどん水田に変えられていった。

だが、18世紀に入る頃、発展は飽和状態に達し、さまざまな問題が起こり始めた。

田畠に肥料を供給するために維持されていた草地までも田んぼにしてしまったために肥料が不足。
地味が低下し、「金肥」と呼ばれる、干鰯や下肥を入れなくては満足な収量が上げられなくなり、結果的に農業が貨幣経済に巻き込まれた。

かつて、「水田-畦・道-小川・池・沼-立ち木・雑木林-草地-山・丘」が一体となって生態系を形成し、さまざまな恵みによって持続可能だった状態から、過度の開発による災害が頻発する状態に変化したのである。

(この図は、肥料にするための草を採取しにいくお百姓さんの姿を描いたもの。過度の開発がなされる前までは、田畠の外縁にあたる野山を切り拓いて、そのままにして草を茂らせ、肥料などを得るための“草山”にしていたという。
ある試算によると、草肥を得るためには、耕地の10倍の面積の草山が必要だという。それを、18世紀になって新田開発をせよとの命令によって田畠にしてしまった。当然、事情がわかっているお百姓さんたちは抵抗したが、最終的には為政者の命ずるままに新田開発は進められたと思われる。)

さらには、草山よりもっと山奥の台地や原野まで開墾したため、山が衰えた。谷へ土砂が崩れ落ち、それらが池や川を埋め、山津波や洪水が頻発。
堤防などの普請に莫大な費用が掛かり、その割に工法や資材が未開発であったため効果が上がらなかった。度重なる洪水で田畠や村落が流されたり、人的被害も起きるなど、「水田リスク社会」が始まったという。

「大量生産が生態系を崩して、持続性を失わせる」という、近代以降に起きたことと同じようなことが、じつは江戸期にすでに起きていたのである。

生き物にしろ、社会にしろ、成長期があるなら、成熟期も衰退期もあって当然。
成長の限界がきたらどうなるのか。モードチェンジが必要なのではないのか。
18世紀に、いったん成長の限界と人為的環境破壊に直面していたこの国。
明治維新でいったんリセットされたのかもしれないが…。
いま、再び、環境保全や低成長社会ということについて、きちんと考えて向き合っていくべき局面に入っていることは確かだろうと思う。
“右肩上がりの経済成長”なんて、ありえない幻想からいまだに離れられない、恐竜頭のおじさんたちにつきあってはいられない。

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