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『「憲法改正」の真実』

“護憲派の泰斗”樋口陽一氏(東京大学・東北大学名誉教授)と、“Kenpokaisei_shinjitu改憲派の重鎮”小林節氏(慶應義塾大学名誉教授)。日本の憲法学界の最高権威で、かつそもそもは立ち位置の違う二人の学者さんが、「法治国家の原則が失われ」、「専制政治の状態に近づいている」この国の現状や、改憲派の憲法学者をも驚愕させた自民党による『憲法改正草案』について対談形式でわかりやすく解説。
とても読みやすくて、素人でも憲法、立憲主義などの基本がよくわかる。
いま、とてつもない危機的状況にあるこの国で(もしもそういう実感がない方なら、なおのこと!読んでほしい)必読の良書です。
※以下の抜粋の、赤字部分にとくに注目してください。災害に乗じて、改憲論をまた持ち出すに決まってるから。

追記:書いてる最中に、やっぱり…
★緊急事態条項「極めて重い課題」 熊本地震で官房長官(2016/4/16 0:33)…ココ!
これはきわめて卑劣な“ショックドクトリン”です。

『「憲法改正」の真実』
樋口陽一・小林節 著
集英社 刊(集英社新書)
2016年3月22日 初版1刷発行

★集英社新書『「憲法改正」の真実』公式サイト…ココ!

★リテラ「『報ステ』古舘伊知郎が最後の反撃!ドイツ取材で緊急事態条項の危険性、安倍首相とヒトラーの類似点を示唆」…ココ!

表紙から
「護憲派」・「改憲派」に国論を二分して永らく争われてきた「憲法改正」問題。ついに自民党は具体的な改憲に力を注ぎ始めた。しかし、自民党による憲法改正草案には、「改憲派」の憲法学者も驚愕した。これでは、国家の根幹が破壊され、日本は先進国の資格を失う、と。自民党のブレインでありながら、反旗を翻したのは「改憲派」の重鎮・小林節。そして彼が、自民党草案の分析を共にするのは「護憲派」の泰斗にして、憲法学界の最高権威、樋口陽一。ふたりが炙り出した、自民党草案全体を貫く「隠された意図」とは何か? 犀利な分析を、日本一分かりやすい言葉で語る「憲法改正」論議の決定版!

以下抜粋。

第1章 破壊された立憲主義と民主主義
P18
憲法を破壊した勢力の正体
小林 (略)日本の社会は憲法という最高法規が踏みにじられ、「無法」と言ってもいいような状況に突入しています。
 憲法九条を無視した安保法制を立法したばかりではありません。たとえば、安保法制が可決され国会が閉会した後、臨時国会開会の請求が野党からあったにもかかわらず、自民党はこれを無視してきました。これも憲法五十三条を破る行為です。
 与党・自民党は憲法に違反するということに、もはやなんの躊躇もないようです。異常としか言いようのない政治状況です。そのうえ、彼らはその憲法の改正まで視野に入れている。

P25
小林 私は、憲法と権力の関係について、「権力というものは常に濫用されるし、実際に濫用されてきた歴史的な事実がある。だからこそ、憲法とは国家権力を制限して国民の人権を守るものでなければならない」という話をしてきたのです。自民党の憲法観は、ずれていますよ、と指摘したのですね。ところが、それに対し、自民党の高市早苗議員が、「私、その憲法観、とりません」といった趣旨の議論を議場で展開しはじめたわけです。おい、ちょっと待てよ、その憲法観をとる、とらないって、ネクタイ選びの話じゃねぇんだぞ、って話です。

P51
自民党草案は「いにしえ」への回帰!
小林 第1章で述べたように、改憲マニアの世襲議員たちは、戦前の明治憲法の時代に戻りたくて仕方がない。だから、まるで明治憲法のような古色蒼然とした、近代憲法から逸脱したこんな草案を出してきた。旧体制への回帰こそが、この草案の正体です。

樋口 おっしゃるとおり、この草案は古色蒼然です。自民党の改正草案を見て「戦前に戻るのか」「明治憲法に戻るのか」という批判をする人たちの主張もよく分かります。
 けれども、この草案をもって明治憲法に戻るという評価は、甘すぎる評価だと思うのです。明治の時代よりも、もっと「いにしえ」の日本に向かっている。

小林 「いにしえ」ですか。

樋口 この「自由民主党 日本国憲法改正草案」なるものは、明治憲法への回帰どころではない。慶安の御触書ですよ。

小林 なるほど、明治への回帰ではなく、憲法なき江戸時代への回帰なのですね!

第3章 憲法から「個人」が消える衝撃
P66
小林 (略)私が一番、まずいと思っているのは「個人」という概念がこの草案では消されてしまっているという問題です。

樋口 やはり、そこでしょう。「個人」が消えたということに驚愕しました。

小林 自民党の草案では、「個人」という言葉をあえて削っている。
(略)
「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に変更になっているという点も要注意ですが、最大のポイントは「個人」としての尊重から「人」としての尊重に変わったというところです。

樋口 同感です。わずか一語の変更ですが、非常に大きな問題をはらんでいます。
(略)
自民党の改憲マニアとつき合ってきて嫌だったのは、「個人の権利」を常に否定したがるという彼らの性癖ですね。彼らは、とんでもない理屈で「個人」という言葉を排除しようとする。
 自民党の改憲マニアに言わせると、「日本国憲法に個人主義がもちこまれたせいで、日本から社会的連帯が失われた。だから個人主義を排して、社会の土台をつくり直すのだ」ということだそうです。
 改正草案第十三条は、「個人」から「個」を削除することで、彼らの願望を実現しようとしていますね。
 しかし、世界の成文憲法の歴史というのはアメリカ独立宣言からはじまりますが、それ以来、どういう価値観を引き継いできたのか。端的に言えば、人は人として生まれただけで幸福に生きる権利があり、幸福とはそれぞれが異なった個性をもっていることを否定せずにお互いに尊重しあうことで成立します。
 その幸福の条件を国家は侵害するな、というのが憲法の要です。

樋口 アメリカ独立宣言に続くフランスの人権宣言でも、共同体の拘束から解放された自由な個人を主体とする、個人の権利だからこその「人」権なんですよ。

小林 ところが、改憲マニアは、国民が個々に好き勝手しているから、共同体が崩れ、モラル・ハザードが起きたんだ、というわけです。その主張には、一見、非常に説得力がある。彼らはこう言うんですね。最近、妙な殺人事件が多いでしょう、子が親を殺し親が子を殺すでしょう、それは「個人」などと言って、子供に勝手をさせるからです。家族がバラバラだからです、それは、「個人」を主張しすぎる憲法が悪いんですよと。
 実際のところ、凶悪事件の件数は戦前より減っていますから、そこからしてなんの根拠もないんですがね。

樋口 家族をはじめとする共同体のなかに置かれた「人」という表現を打ちだすことによって、共同体から自由な「個人」を捨てた。これは根の深い問題ですよ。


第4章 自民党草案の考える権利と義務

「権利には義務が伴う」は本当か?

P80
小林 第三章では、個人という概念や生まれながらにもっている権利というものが、自民党の憲法改正草案では消去されているという事実を確認しました。
 それと同時に恐ろしいのは、彼らが国民に多くの義務を課そうと躍起になっている点です。自民党の勉強会では、こんな話を議員たちからたびたび聞きました。「国民は自分の権利ばかりを主張して、公のための考える気持ちを忘れている」「日本国憲法のなかには『権利』という言葉が二十数回出てくるのに、国民に課される義務は三つだけじゃないか」「国会議員には、憲法擁護義務などという面倒なものがある」。

樋口 それは、そもそも国会議員というものは権力者であって、国民と同じ土俵に乗っているわけではないのですから、当然のことです。

小林 彼らに言わせると、「不公平」なんですよ。それで、国民はもっと「公益」だの「公の秩序」に従うべきではないか、と言うのですね。
 ところが、実際「公」というのは誰を指すのか、ということが問題です。「公」は人格をもって立ち現れるものではありませんから、「公」にまつわる事柄を実行する俺たち権力者に従え、国民はいちいち「権利」などを主張するな、ということになりかねない。非常に雑に言うと、自民党の本音はそういうことのようです。



第5章 緊急事態条項は「お試し」ではなく「本丸」だ
P110
危機への備えは法律の整備で
小林 正直に告白すると、かつては、憲法に国家緊急権を書きこむことも必要だと私自身は考えていて、その考えを活字にもしていました。
 ところが、その考えを最近、捨てました。考えを捨てた理由はいくつかあるのですが、まず、
憲法に国家緊急権を書きこむことで得られるメリットがない、という政策論的な観点から説明させてください。危機への対応は、憲法ではなく法律で準備しておく必要があり、憲法に書いてあっても現実対応の役には立たないのです。
 
こういうことを私が言えるようになったのは、阪神・淡路大震災や東日本大震災で実際に支援活動をした弁護士たちの意見を聞く機会があったからです。現場をよく知る彼らの主張はこうです。災害に際して、中央の政府の権限を強化したところで、被災地の状況は把握できない。状況を把握できない政府に判断を委ねても、時間がかかるし、間違いも起こる。生死の間際にある人々をそれでは救うことはできない。災害時に必要なのは、中央の権限を強化することではなく、自治体の首長に権限を委譲しておくことなのだと。さらに言えば、災害が起きてから、あわてて中央で対策や立法を練っていても間に合わない。

樋口 憲法に書きこんでおいても遅すぎるわけですよ。より良い対策を講じたいのならば、伊勢湾台風の対応の反省として、すでに災害対策基本法が一九六一年に制定されているのですから、こういう種類の法律の内容を必要に応じて、見直していけばいいわけです。


あとがきから
主権者としての心の独立戦争 小林節
(略)
P244
 今、我が国は、文字通り立憲主義の危機に直面している。そして、そのときに、樋口先生が毅然として論壇で語るお姿は、私には我が国のいわば「命綱」のように見える。
 この戦いは、私たち日本国民に意識の変革を求めるもので、短期間では決着のつかない、主権者としての心の独立戦争のようなものである。
 この先数回の国政選挙が決定的に重要なものになる。そして、最悪の場合には、私たちは憲法改正の是非を問う国民投票に直面することになる。そのためにも、私たちは、今、政権の側から提案されている「憲法改正」が実は「憲法改悪」であるという「真実」を知らなければならない。
 私も、樋口先生のように情熱と余裕をもって戦っていきたい。


あらためて「憲法保守」の意味を訴える 樋口陽一
(略)
P248
 対論の中でもこの文章でも、「保守」というキーワードに何度か触れた。それはもとより、頑固になにもしないということではない。私が今この言葉に託したいことを言いつづめて表現すれば、次の三つになろう。
 第一は、人類社会が普遍的なるものを求める歴史のなかで曲折を経ながらつみ重ねてきた、その知の遺産を前にした謙虚さであり、第二は、国のうち・そとを問わず他者との関係でみずからを律する品性であり、第三は、時間の経過と経験による成熟という価値を知るものの落ち着きである。
 今私たちをとりまくのは、そのような「保守」とはあまりに対照的な情景ではないか。もはや東西の文化に学ぶものなし、と言わんばかりの「日本は日本」という内への屈折、国の内外を問わず「あちら側かこちら側か」を決めつけて「決める政治」を求める性急さ、戦後七〇年の自国史を支えてきた基本法を「みっともない憲法」と呼んで国民の矜持を傷つける政治の最高責任者。―そういうなかで「改憲ぐせをつける」とまで言う政治勢力に基本法を左右させて良いのか。自分自身としてなにができるか。共著者二人のあいだで、そして読者とともに問い続けてゆきたい。

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