『スポットライト 世紀のスクープ』
先日、友のツイートで知った作品。検索してみたら、ちょうど地元で上映されていたので観に行ってみた。
2002年1月、ボストンの新聞「グローブ」が全米を震撼させた大スクープを放つまでの経緯を追った、実話に基づく作品。
敬虔で厳格であるはずのカトリックの教会で起きた、想像を絶するおぞましい事件。そして、権威ある組織が隠ぺいを続けてきた、とてつもなく巨大な“闇”。
“信仰”というものへの認識が、一般的なアメリカ人と自分ではずいぶん違うと思うので、理解しきれていない部分もあるとは思うのだけれど、いろいろな意味で衝撃的な作品だった。
「あってはいけない醜悪で重大なスキャンダル」の一端をつかんだとき…
新聞社は、真実を報道することが使命。けれど、
経営が成り立たなくては元も子もない。
定期購読者の過半数がカトリック信者であることから、その事実を記事にするとどうなるか、を考えてしまうというのは、ある意味しかたのないことなのだろうと思う。
この作品で心に残ったセリフ。
「読者は過半数がカトリック信者なので…」という逡巡に対して
「興味を持ってもらえるでしょう」と答えたのは秀逸。
そして、
「これを記事にしたら、誰が責任を取るんだ?」
「では、記事にしない場合の責任は?」
という会話。
強大な存在の陰に被害者がいて、その巨悪をあばかなければ、さらに罪は重ねられるだろう。新たな被害者が生まれ、そしてそれは隠され続ける。
権威は、あるいは権力は、力をもつがゆえに腐る。
腐ったものを内在させながら、それを隠蔽して、組織として生き延びるためにやってはいけないことにも手を染める。
それは、宗教であれ、営利・政治の組織であれ、同じことなのだろうと思う。
そして、そこで犠牲になるのは、いつも力のない、弱い存在。
今この国で、大手のジャーナリズムが“過度の忖度”によって政権に阿り、伝えるべきことをきちんと伝えていないのは、つまり“そういうこと”、なのだろうと思う。そして、そのために犠牲になっている存在があることも。原発も、基地問題も同じこと。
この作品は、映画としてはとても地味な構成。記者たちと被害者や弁護士との会話が主で、派手なカメラワークもなければ、スキャンダラスな表現も出てこない。だから、ある意味“安心して”見ていられるのだが、その分ちょっとした表現にも奥深いものを感じた。
ぞっとしたのは、教会のシーン。
無垢な子どもたちと、善良そうな神父がいる、きわめて“普通”の情景。
「一見平和で、ふつうの風景の裏側に、おぞましいできごとや、傷つけられている子どもたちの存在があった」という目で見ると…
きっと、世の中ってそうなのだ。平穏な、ありふれた風景の下に、目に見えない、残虐なできごとや、おぞましい出来事がたくさん隠されている。そして被害者は、気づかれることなく、傷つき続ける。
そうであるならば、それを見過ごさないようにしよう。ジャーナリストがきちんと伝えるように。それを受け取る側が、きちんと受け取れるように。目隠しをされないように、騙されないように、アンテナを研ぎ澄ましておかなければ。切実に、そう思う。
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