『食を考える』
P32「ファーストフード」より
ファーストフードは悪いのか。地球環境のことを考えれば、ファーストフードはやはりよくない。いや、環境に悪いのに世の中に受け入れられ、売れに売れているのが問題、というのがよいかもしれない。(略)
ファーストフードの何が悪いか。まず、安いこと。え?安くて何が悪いのか、ですって?考えてもごらんなさい。製品が安いということは、それを作る人の手間賃も材料費も安いということだ。手間賃をぎりぎりと削ってゆくと、回りまわっていろいろな分野で人件費が下がってゆく。相対的に食品の値段には割高感が伴い、また値上げの圧力が加わる。要するに「マイナスのスパイラル」が働いて経済は縮小してゆく。安いということはどこかに負担がかかっているということなのだ。「安かろう悪かろう」などということわざもかつてはあったが、それはこの意味でも、ことの本質をついている。
P34
化学肥料をたくさん使えば土地や水を汚染する。さらに、肥料の一部は雑草にも回ってしまう。皮肉にも化学肥料をふんだんに使ったことで、雑草をも太らせてしまうのだ。化学肥料を吸った作物の身体はやわらかくなり、害虫や病気の攻撃も受けやすくなった。雑草、害虫や病原菌の駆除のため、さらに多くの農薬が使われた。さらに、これらの薬剤は生態系にも大きな影響を与えた。害虫も病原菌も、農薬に対抗するためにコロコロとその姿を変え、新たに開発された薬に抵抗性を持つものがすぐに登場する。つまり、せっかく巨額の投資をして農薬を開発しても、数年もすれば効かなくなってしまう。
(略)
今のところ、現代社会が作り上げた農業のこのシステムは、表面上は大きなほころびは見せていない。
しかしこうした技術がどれも大量のエネルギーを使い農地を使い捨てにすることで成り立つ技術であることに、どれほどの人が気づいているだろうか。もし、運搬のための石油も無尽蔵で、また農地も無尽蔵というなら、この路線のままいくのも悪くない。そういう選択肢があってもいいだろう。だが現実に、石油も農地も、有限なのだ。
P106「遺伝子組み換え食品」より
(略)
おそらく、多くの遺伝子組み換え食品は、それを食べたからといって直ちに健康に害が及ぶようなものではない。では、それを進んで食べるかといわれれば、専門家の中にも食べることを躊躇する人がいる。「直ちに健康に影響が及ばない」のに食べることをためらうのはなぜか。一つには、将来のことなど誰にもわからないからだ。つまり、影響が及ばないのは食べてすぐのことであって、将来にわたって影響がないかどうかは神のみぞ知ることだからである。
次に問題なのは、行政はじめ公に対する信頼が薄れていることだ。ここ十年ばかり、人の命、健康、食の安全を守る政治、行政は混迷を極めた。
(略)
食品の製造に携わる大手の企業の倫理にもひどいものがあった。まさかあの会社が、というような大手メーカーや老舗が、思わず耳を疑うような偽装をした。それはまさに「倫理の崩壊」であった。いったい私たちは何を信用して食べるものを買い求めればいいのか。
遺伝子組み換えの問題とこれら食の「倫理の崩壊」の問題を一緒に議論するのは適当ではないという意見もあろう。しかし、自らの食料を生産する手段を持たない今の日本の消費者の正直な感覚からいえば、両者は同じ問題なのだ。食べ物の安全について、政治や行政は信頼できない……。遺伝子組み換えについてもしかり。こうした思いを持つ消費者が増えているのは深刻なことである。
(略)
さて本論。遺伝子組み換え作物は、果たしてどこまで安全か。一人の専門家として真摯にいえることは、技術に完全はないということである。「絶対に安全だから安全対策はやらない」という考えは技術者がよく陥る誤りだが、これは論理的には正しくとも現実の対応としてはまずい。2011年の東日本大震災のときにも防災の専門家などから「想定外」という語がしばしば聞かれた。想定外の出来事だったから自分たちの技術の体系に問題はないと考えるとするならば、技術者として失格である。猛省を求めたい。
(略)
「科学的根拠」などという語を軽々しく使わないことだ。科学も、技術も、いつも未熟である。いつも発展途上なのだ。手元にある数字を並べ立てて「科学的」と称し、いかにも絶対的に正しいかにふるまおうとする専門家が多いのにはあきれるばかりだが、そもそも研究の世界にも数字で割り切れない問題がいっぱいある。「科学的」という語をやたらと使いたがる人に限って何かが起きたときにはきっとこう弁明するに違いない。「想定外の出来事でした」と。
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