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「御岳山噴火に対する思い」

飛騨の霊峰位山からは御嶽山がよく見える。山頂付近からみた御嶽山。
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噴煙を上げている焼岳を歩いた翌日、位山から御岳山を見ながら(この写真)、次の連休にはこの山に登るつもりでいた2014年秋。
百万人の山と自然2016」で、噴火の現場から生還したガイドの話をお聞きしたが、極にゃみ的には、10日ほど噴火がずれていたら他人事ではなかったのだ。

小川ガイドのお話から。
剣ヶ峰からお鉢廻りへと歩き出し、ちょうど岩稜帯にさしかかったときに噴火が起きたとか。
唐突に「ドドーン」という低い音がして、振り返ると噴煙が上がっていた。噴石が降ってくる中、“救助隊で、自身の山行で身に付けた、「今出来る事」「できない事」「やらなければいけない事」「やらなくて良い事」、そして何より「死なない事」が明確となり、生きる為の思考回路に切り替わり体が勝手に動いた。本能だったのかも知れない。考えている暇などなかった”。
想像を絶するすさまじい状況の中、単独で最初の1時間を生き抜き、視界が広がり始めたタイミングを逃さず、危険領域からの脱出を試みた。途中で4名の生存者に会うが、足にケガをした女性に「大丈夫、噴火は終わる」と声をかけて、独り先へ進んだ。
登山道を通らず、一ノ池、二ノ池を突っ切って最短ルートで覚明堂までの1kmを爆走した彼女は、それ以外の登山者の姿は見なかったそうだ。

生還後、何人もの記者に「ガイドで救助隊なのに、なぜ一人で逃げたのですか?」と聞かれたそうだ。「ガイドなのに、救助隊なのに、なぜケガ人を助けなかったのか」、その質問には非難の意味が込められていたことは想像に難くない。
感情を押し殺し、低い声で淡々と語る姿からは、自然災害によって九死に一生を得たという強烈な体験というよりは、その後、精神的につらいことがたくさんあったのだろうという感じがした。

生死の境目が目の前にあり、ギリギリの状況下で生き延びた本人にとっては、結果的に何一つ間違った行動ではなかったはず。

結果論で言えば、その後噴火は終息していったから、彼女が救おうと思えば救えた人もいたかもしれない。けれど、その場においては、さらに噴火が続く可能性があると考えるのは当然のことだし、「自分の命を守る」ことを優先したからといって非難されるべきではないと思う。

私がこれまで学んできた山岳レスキューの基本は、「まず自分と自分のパーティの安全を確保する」ことが基本。そこをクリアした上でのみ、救助活動を行うのが原則だ。

自分がその現場にいたらどうしただろう、と考えてみた。
仮に、噴石の落下が一段落していたとして、ケガをして歩けない女性がそこにいて、手を貸せそうな無事な男性が3名いて、という場面に行き合わせたとしたら。

男性たちと協力してケガ人を搬送する、というのが理想形だろう。
筋力的に非力な女性であっても、全体が一致協力して行動するための指示を出すとか、ルートを判断・先導をするとか、安全確認をするとか、レスキューの現場では果たせる役割があるということを、私は、学んではいる。

だが…
いくら考えてみたところで、「居合わせてみないことにはわからない」という答えしか出てこないのだ。
それは、「現場での総合的な判断がすべて」だからだ。
そして、私も、自分が生き延びることを最優先するだろうと思う。

ケガ人が、もし仲間だったら…?
 わからない。
仲間を見捨てて逃げるだけの根性が自分にはあるのか?
あるいは仲間の命なんか振り返る余裕すらなくなるのか?
本当に、現場に居合わせなければわからないことなのだ。

だから、生還した小川ガイドがどういう立場であれ、現場にいなかった人が、その判断と行動を非難することは間違っていると、私は思う。

★御嶽山「噴火の証言」(NHK)…ココ!

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