『荒天の武学』
まず面白かったのが、内田氏によるまえがき。
はじめに 「弱い武道家」という立ち位置から
P13
武道家としての私の最大の才能は、「厭なことに我慢できない」という体質である。どうしても我慢できない。それが制度であっても、人間であっても、言葉であっても、体感であっても、我慢できないものには我慢できない。
(略)
「それが切迫してくると私の生命力が減殺されるもの」に過剰なまでに敏感な私の体質を「強さ」と呼ぶ人はいないだろう。どう言いつくろってもこれは「弱すぎる」ということだからである。でも、私の武道修行は、振り返ってみると、その全行程がこの「弱点」を軸に展開していた。
生きる力を損なうものが接近してきたら、できるだけ早く、全速力で逃げ出す。
それは原理的に言えば、体術における相手との接触機会についても同じはずである。「負の入力」に対しては、それが私に及ぼす負荷を最小にするように身体が自動的に動く。
熱いフライパンに素手で触れたときに、「どのタイミングで動きだすか」とか「どのような動線が最適か」というようなことを考える人間はいない。「熱い!」と言う間もなく手はフライパンから離れている。自分の生きる力を損なう可能性のあるものからは最短距離を辿って最短時間で逃れる。私の場合は、その対象がフライパンに限定されないというだけのことである。
だが、実際に合気道の初心者を見ていると、そうでもない。そういう動きをすると身体のあちこちに詰まりや痛みやこわばりができて、一層「不快」が嵩じるような動きをあえて選択するものは決して少なくない。身体の使い方についての固定観念に囚われているために、例えば「腕を上げる」という動作を指示されると、肩に支点を作ってヒンジ運動をすることしか思いいつかない。「ふつうの人間はそういうふうに身体を動かす」という思い込みが「そんな不自然な動きはしたくない」という身体が発信する抗議メッセージを消してしまうのである。これまで学校体育やスポーツを通じて我慢することに慣れた人はこのパターンからなかなか抜け出せない。
私は我慢ということができない人間なので、その分だけ因習的身体運用からの自由度が高い。厭な身体状態に我慢できないし、そこから抜けだそうとするときも、「この動線を選択するとなんだか厭なことがありそうな予感がする」動線は取らない。
そのような動きを「巧い」と形容することはできない。むろん「強い」のでもない。「こらえ性がない」のである。
でも、そのおかげで私の「不快なことの接近」に対する警報の発動は早い。生命力を減殺する可能性のあるものが近づいてくると、耳をつんざくような轟音が鳴り響く。(略)
でも警報に反応してあれこれしたせいで、結果的には何も起こらずに済んだので、そもそも私の身にいったいどんな危機が切迫していたのか、後から考えてもわからない。そういうこともある。
第1章 荒天を生きるための武術 から
P50
内田 武道的な力というのは、端的に言えば、一個の生き物としてあらゆる状況を生き延びることができる能力ということだと思うんです。生き延びるための知恵と力を高めること、それが武道修業の目的だとぼくは思っています。自分自身が愉快に、気分良く生き続けるために心身の能力を向上させること。でも、自分ひとり愉快であればいいというものじゃない。社会格差のせいで苦しんでいる人や、政治体制がうまく機能してないせいで不幸な人が周りにいたら、ぼく自身が楽しくない。
(略)
だから、現代における荒天型の武道家は、政治や社会、経済問題に無関心であったりすることはありえないと思うんです。
第2章 荒天型武術の学び方 から
P62
光岡 頭脳が影響している身体が鈍感なんですよ。本性の身体は、すごく頭がいい。ご飯だって「消化しよう」と思わなくても消化してくれるわけですから。
実は頭はいいけれど、一方で脳の作り出したバーチャルな身体があって、その部分がすごく鈍感なんです。
P74
内田 「後手に回った」と思った瞬間に、人間は絶対的に遅れてしまう。(略)
「あのときああしとけば良かった」というようなことは絶対に思っちゃいけない。過ぎたことへの後悔と、「これからどうなるんだろう」という取り越し苦労はどちらも武道的には禁忌です。過ぎたことはもう過ぎたことなんだから考えても仕方がない。まだ起きてないことはまだ起きてないんだから考えても仕方がない。
P75
内田 ぼくはできるだけものごとを逆向きに考えるんです。「なぜ“あること”が起きて、“それとは違うこと”が起きなかったのか」、それについて考える。「起きても良かったはずなのに起きなかったこと」がある。それはなぜ起きなかったのか。
P79
内田 原発の事故の後、「原子力発電はこれからもやる。だが、事故はもう二度と起こさない」と原子力行政のトップがはっきりと国民に向かって言うべきだったと思います。どれほど批判の十字砲火を浴びても、昂然と頭を上げてそう言うべきだった。そう言えば、「じゃあ、絶対に事故を起こさないためにはどうすればいいか」という技術的な問題に論点が移る。技術的な問題だけに限定して、徹底的に考えていったら、「絶対に事故を起こさない」ためには、法外なコストがかかることがわかる。そして、このコストを考えたら、原子力発電は「国益上、やめた方がいい」と言うプラクティカルな結論に至る。「二度と事故を起こさない」とまず宣言すれば、「そのためには原発を止める以外の選択肢はない」という結論にリアルでクールな推論で辿りつくことができた。それを「法定の基準を適用する限り、安全に問題はない」というような言い逃れをして、むりやり再稼働に持ち込んだ。再稼働に際して、「二度と事故を起こさない。事故が起きたらそれは私の責任だ」と断言した人が一人もいなかった。
P82
内田 (略)新型インフルエンザの最初の症例が神戸で発見された。非常に感染力が強いウィルスだということで「とにかく外出を控えろ」というアナウンスが行政からなされた。学校行事も全部中止になって、神戸の繁華街がいきなり無人になった。(略)
数日したら、今度は「こんなことをしていたら都市機能が麻痺する」ということを大阪の府知事が言い出して、警戒が解除されました。でも、これは没論理的ですよね。ウィルス感染を防ぐために出された外出自粛令を撤回するロジックは「もう感染の恐れがなくなった」以外にはありえない。でも、このときも「みんなが家にこもっていたのでは商売にならない」というビジネス優先の発想から「感染してもいいから、これまで通り外に出て消費行動をしてくれ」ということになった。
(略)
何が起きているかわからないときに、とりあえず行動を自粛して様子を見るというのは生物として正しい判断です。危険については、それを過大評価して失うものと、過小評価して失うものとでは、桁が違うんですから。
P106
光岡 ハワイのギターをスラッキーと言いますが、音符なしで弾きます。口伝や体伝だけで弾き方が伝わっています。そういう学び方に戻していく方が実は体得は早いのですが、現代人は頭で学んでいる習慣、癖がついているせいで、習い覚えた癖を捨てることが怖いので手放せない。
第3章 達人はフレームワークを信じない から
P129
内田 (略)「期待の地平」の中でしか人間はものを考えないけれど、「せいぜいこの程度だろう」という予測で動くのは、晴天型スキームに慣れた人間の陥るピットフォールです。
P213
光岡 必然というのは、向こうから勝手にやって来る。それは良い悪いではない。選びようもない。だから、それがやってきたときになって慌てたり、過去にすがったりしてしまう。自分の内面のどこを見るかというところを稽古しないと、それと向き合うことはできません。要するに今まで通用していたことが通用しなくなりました。で、どうする?という見きわめができるようになるには、自分が見ている目を磨かないとまずできません。ふだんの稽古とは、そういうものだと思います。
第4章 荒天を進む覚悟 から
P221
光岡 大阪市長のような人物が出現するのもある種の社会現象で、ああいう人が出てきて支持されるのと原発の再稼働は、一見関係がないようだけれども、どう考えても現代社会に住む我々の精神構造や思考構造とつながっていますよね。
要するに夢を見ていたい人が多いということで、見ている夢にまどろんでいれば、現実にある問題は見ないで済むんじゃないかという幻想への逃避です。こっちを見ておけば、あっちは見ないで済む。だから安心だ。でも、どちらにせよ着々と現実は進んでいるわけです。夢とは関係なく。
内田 日本の現状は本当に危険だと思います。フランスは大統領がサルコジからオランドに代わって、ちょっと足を止めて、これまでの流れのままでいいのかどうか考え直そうという気運になっている。アメリカもオバマが再選されて急激な変化はないでしょう。中国の指導者交代も多分それほどの摩擦なしに行われるでしょう(編集部注・2012年11月、習近平が中国共産党総書記に)。その中で、日本だけが異様に浮足立っている。
P222
光岡 知識や情報というものは過去知でしかない。だから知識や情報は決して未来の確定にはつながらない。感覚しか一寸先を読むものはないわけです。自分が論理的に組み立てられる、その枠の外にしか、未来で起こり得る可能性を読むことはできない。
そこで課題になるのは、私たちの知りたい未来は、きわめて抽象的な存在だということです。それについて知り得ることは、「今まで」に知り得たことを以ても「未来はわからない」ということだけで、それは誰しもわかっているわけです。
一寸先は闇の状況に置かれて、過去を頼る人の方が多いというのもよくわかるんですよ。要するに今まで体験的に「こうしてきたからこうしよう」という方に気持ちが行きたいというのもわかる。
でも、そうするといまだかつてないことを体験する可能性が失われる。どうせ知識や論理から物事をとらえるのであれば、そういう未来の可能性へアクセスできるようにしたいですよね。そうでないと過去の使い古し、使い回しで事に当たろうとするわけですから。知識や情報といった古いものの使い回しでは、未来どころかいまさえ生きない。もちろんこれはいわゆる歴史や伝統を単純に否定するということではありませんが。
P233
光岡 高い精度の運動では感情は邪魔になります。もちろん、怒りもそうです。怒りに任せて運動すれば、どんどん精度は下がる。逆に、一撃で相手を倒すためにはどういうふうな身体運用が最も効果的かを技術的に考察するときには、怒りの感情なんか邪魔で仕方がない。
P238
内田 そうですね。一個の生物として生き延びるための知恵と力は個体一人ひとりで発現する仕方がまったく違いますからね。戦闘力を上げるという解もあるし、折り合いの交渉力をつけるという解もあるし、ぼくみたいにはるか遠方からでも「あっちからやばいものが来そうだ」と思ったら一目散に逃げだす危機察知力を高めるという解もある。どういうかたちを取るにせよ、それらはやはりその人固有の生きる知恵と力だと思いますね。
光岡 もともとあるものを深く掘り下げていく。ちょうど植物を育てるようなものでしょうね。害虫にやられるようだったら、それもひとつの運命として受け入れていく。それで生命が終わったとしても、でもそれが生命の終わりではない。
死が終わりだと思えるのは、過去知により死が社会的に概念化、観念化され社会的に共有されているからです。死は本来再生への道でもありますよね。有形有限的には前の世代が死んで次の世代のための肥やしにもなります。そうすることで次の生命がそこに宿る。
内田 そうですね。それが生命のサイクルですしね。
光岡 輪廻を認めると言うと大袈裟な話になりがちですが、輪廻とは「そうなってるね」と言われたら、「うん、そうだね」と言えるくらいのものですよね。有形有限的に物が朽ち果ててなくなっていくのは普通のことで、特別な現象ではありません。そしてまた何かが新しく生まれてくるのも普通のことです。
けれども、特別なことではないというのは、すごく特別なことですよね。春になれば花が咲いてくる。夏になれば葉が生い茂る。それはやはり気持ちのいいことですよね。
おわりに
きれい事では済まない状況を如何にきれいに解決できるか から 光岡英稔
(略)
つまり、人の社会性と自然は永遠のテーマであり、人という生命がある限り常に問われていることである。同時に人が訊ねてはならない答えなき問いなのかもしれない。
“もし”や“たら”“れば”といった仮定のないリアルな世界を自然は私たちに呈示してくる。しかし、人間は自分たちでつくった社会という枠組みの中で共同幻想を生きている。だから国土を広げ、利権を得ようとし、ときにある人種が特定の考えを掲げ、科学や技術を発達させ、進化したとハシャぐのだが、それは幻想の中での利権、拡張、発達、進化に過ぎない。どれだけ、それがリアルに見えたところで、私たちが世を去るとき、それらを何ひとつとして持って行けないことが、その幻想性を物語っているだろう。自然から呈示される避けて通れない現実はシビアである。
(略)
この長く続く自然のサイクルと異なり、今の世の中で問題とされることは、社会の生んだ共同幻想やプロパガンダに熱を上げることで、人々は国家の拡張、利権、自らの所有欲を見たし不安を埋めるために自分の持ち分を確定する境界線を引くことに懸命だ。人としての自然ということをますます忘れていっているように見受けられる。
(略)
武術とはきれい事では済まない状況を如何にきれいに解決できるか。そこに存在意義がある。武術は決して殺し合いや殺戮を目的につくられたものではなく、争いがあったとしても願わくば互いが無傷で終え、仲直りできるよう和平へと結び付ける為の術であり業である。殺戮を目的とするなら暴力や武力、軍事兵器、科学兵器などを用いる方が手っ取り早く、そこに武力と武術の根本的な違いがある。
これらを踏まえた上で問われるべきは、武を志す者一人ひとりが科学兵器や暴力、武力に対してきれい事ではない武徳を持ち、それらに応えられるだけの稽古を日頃から行えているか否かである。
★最近読んだ内田樹氏の著作
『日本戦後史論』
『「意地悪」化する日本』
★「街場」シリーズ
『街場の戦争論』
『街場の憂国論』
『街場の憂国会議 』
★ちょっと前(だいぶ前?)に読んだ内田樹氏の著作
『憲法の空語を充たすために』
『邪悪なものの鎮め方』
★聖地巡礼シリーズ
『聖地巡礼ビギニング』
『聖地巡礼ライジング 熊野紀行』
『現代霊性論』
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