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『だからこそ、自分にフェアでなければならない。 プロ登山家・竹内洋岳のルール』

世界に14座ある8000m峰すべてを登頂した人は、世界で31名だそう。
Dakaraそのうち、日本人はただ一人。「プロ登山家」を名乗る竹内洋岳氏だけである。
なぜ、彼はそれを達成できたのか。自身も登山を愛好する写真家・小林紀晴が天狗岳登山に同行したことと、インタビューの内容をまとめた一冊。

『だからこそ、自分にフェアでなければならない。 プロ登山家・竹内洋岳のルール』
小林 紀晴  著
幻冬舎 刊
2014年9月 初版発行

参考
★刊行記念対談…ココ!

かつて、わりとまじめな山ヤだった頃、竹内氏の個人ブログ「14Project」はけっこう好きでちょくちょく閲覧してたのだけど、いつの間にかなくなってた。FBに引っ越ししちゃったのかな。

それはさておき、例によってちょこっと抜粋。

「運は存在しないというのが、私の山登りです。」から
P18
 運というのはこんなことかと思います。何かのせいにしたいだけなのかも、と。運のせいにするなら運だし、誰かのせいにするなら誰かのせい、天気が悪かったのであれば天気のせい、みたいな。そういうふうに何かのせいにするだけのことだと思うんですよ、結局。私は自分のせいでしかないと思うので、山では人のせいとか天気のせいとか運のせいにはしません。
 運は存在しないというのが私の山登りです。運で片づけてしまうと、その先考えようがなくなっちゃうわけです。そこで思考が停止してしまいます。「ああ、運がよかった、運が悪かった」となると、そこでお終いですからね。それではやはり想像が続かないわけです。私たちは想像するために山に行ってるわけですから。
 私は山で次に何が起きるかを、想像しようと思っています。登山っていうのは想像のスポーツですから。例えば、あの山のあのルートをいつ誰とどんな方法でどうやって行ったら登れるかって、最初に想像した人がそこを登れるわけです。何の道具を持っていこうかなとか、あそこはたぶんああなっているかもしれないから、こういう道具を使って、こういうふうに登ってとか、ディティールまで、人より先に多く想像できた人が登れるわけですから。想像したものと実際が合致すればするほど実現していくのです。

「感情的な人は登山を続けていくことができない。」から
P69
 確かに山では本性が出ます。出てきますよ。これが面白いです。これは、先天的なものと後天的なものが混じり合ってるものだと思いますが、やっぱり先天的なものもいっぱいあると思うんです。
 私の周りの人も、山で変わらない人の方が多いです。いや、そういうひとしかいないともいえます。それにはたぶん、理由があります。そうでないと、あそこで生き延びられないからだと思います。例えば、感情的な人は山で死んじゃうんじゃなくて、登山を続けてはいけないと思うんです。
 結果、続けてきた周りにいる人たちがそうだということです。残っていって、続けていけるんだと思います。淘汰といえるかもしれません。1回2回の登山では、いろんな人が来ますけど、結局そういう人たちがその後続けているわけではないのです。

「社会や学校は8000メートルみたいなもの。適応できなかったら逃げろ、生きるために。」から
P76
 いじめは雪崩と同じだと考えています。一人で立ち向かっていったって止められもしないし、流れも変えられない。だから、もう逃げろ、逃げてしまえと。私はそれしかないと思います。誰かに助けてもらうとか、誰かが何かをしてくれるのを待ってたって、解決なんかしないし、そのあいだに飲み込まれちゃったらどうなっちゃうかわからないから、とにかく逃げろ、逃げろ。
 世の中、逃げろじゃなくて、逆に頑張れとかいうことが多いかもしれない。でも、逃げてしまえ、どこまでも逃げてしまえ、家からも逃げてしまえ、その行動が必要だと私は言いました。野生動物じゃないですけど、脱兎のごとく逃げていくっていうのは、ある意味正しいと思うんです。
 要は、社会とか学校とかって、たとえてみれば8000メートルみたいなもので、その環境に適応できるものだけがそこで生き延びていくんだと思うんです。ある人には苦でないことが、ある人には恐ろしく順応できないことだったりする。その差は生まれ持ったものだと思いますよ。

「生き延びるのではなく、人は死なないようにできている。」から
P81
 いま、生きる力だとか、生き延びる力とかって言葉が結構よくいわれますけど、それ以前に立ち返って、人間はね、生き物はみんなそうだと思うんですけど、生き延びようとする以前に、一生懸命死なないようにしてるんだと思います。
 例えば凍傷になるときも、指先などの末端から切り離していくわけですね、人間っていうのは。身体の中心部、脳と脊髄を守るために末端から切り捨てていくわけです。なんだかけなげだなって思うんですよ。人間の身体って。頭と脊髄を守るために、指が犠牲になってるわけですよ。生き延びようとするよりは、死なないようにしてるような気がしてなりません。

「山に限らず、日常生活も判断の連続。」から
P95
 勇気ある撤退。あれは非常に文学的な美しい言葉です。あんなものは実際にはない。
登るっていう判断と下るっていう判断は、まったく同じです。どっちがいいとも悪いともいえなくて、その場で必要だからすることであって。登れるという状況の中では登るという判断をして当たり前ですし、下らなければいけないという状況の中で下るという判断をするのも当たり前です。
 途中で下りるとき、確かに心残りがまったくないわけではありません。一番思うのは、また次ここまで来るのか?という思い。もう次のことを考えているわけです。次もここまで来て、ここから先を考えていかなきゃいけないんだなと思うと、一瞬、気が遠くなります。でも、それはそのときに、ああ、次来るときもここまで来るんだなって思うだけの話で、それで何か判断が変わることはないです。

「山の頂上は通過点でしかない。」から
P161
 登っているときに下から上を見るのと、下るときに上から下を見るのでは、同じところが違って見えます。だから、登っているとき後ろを振り返って、その光景を頭に焼き付けます。それも習慣的にやっています。意外とそれをやらない人が多いんですよ、疲れちゃって。下ってきたときに見える景色を頭の中に蓄積しておくのです。

この人は、ものすごく合理的な考え方の持ち主だと思う。だからこそ、14サミッターになれたのだろうけど。運などではない、というのは、運ですませようという態度に比べて、いろいろたいへんでエネルギーもいる。だけど、だから、成功につながるのだろう。
そこは理解できる。(でも、極にゃみ的には、やっぱり運ってものも、あるような気は…するのだけれども…。)

竹内氏の発言ではなく、著者の言だが、
P17 「天狗岳登山」から
 登山は、基本的に雨天決行だ。もちろん台風や自然災害などがあったら当然ながら中止したり、途中で下山したりすることもあるが、通常は雨が降ったからといって、例えば野球の試合のようにあっさり中止することはない。すべての天候を受け入れたうえでフィールドを歩くことを楽しむのが登山本来の姿だし、醍醐味だからだ。雨は想定内のことで、雨そのものを楽しむという精神がある。雨もまた自然であるという考え方だ。だから雨具は絶対に必要なのだ。どれほど晴れていようが日帰り登山でない限り、雨具は持っていく。

極にゃみ的には、そこは同感です。

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