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『穂高を愛して二十年』

めざせ!槍ヶ岳 中年山ボーイ&山ガールGO』著者で、ブログ「中年山ボーイ&山ガールGO」の奥田裕章氏から、山の本をご寄贈いただいた。
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北穂小屋を建てた小山義治氏の『穂高に暮らして二十年』、
エベレスト初登頂を成し遂げた、ヒラリー、テンジンの登山隊を率いた隊長、ジョン・ハントによる『エベレスト初登頂 (The ASCENT OF EVEREST)』(なんと!A&Fが出版!)の2冊。

翻訳物は、なぜか読むのにものすごく時間がかかるナゾの体質なので、“エベレスト”の方は、ぼちぼち読むとして、『穂高を愛して二十年』から読み始めた。昨日、台風で予定が流れたので、じっくりと読了。

極にゃみ的には、元々穂高が大好きで、けっこう通った時期もある。一番多い年は、7回行ったかも。

ぬるい一般ハイカーに落ちぶれてからも、たまに一人でふらりと登りたくなるのはやっぱり穂高。
北穂小屋には、2013年9月の山行で、初めて宿泊したが、ロケーションのよさとホスピタリティに感動。食事もレベルが高くて、いい小屋だと思った。

何度か建て替えや改装が行われたようで、現在は設備も新しく快適だが、最初に建てられたのは、終戦から間もない昭和22~23年のことだそう。

Dsc06132 私が生まれた年、1961年にハードカバーの初版が新潮社から発行され、21年後に文庫版が中公文庫から出版されている。
お送りいただいたこの本は、新潮社版の初版5刷。

表紙は、空撮なのか、北穂小屋と北穂の山頂を上空から俯瞰した写真。

積雪期のモノクロ写真の上に、タイトルと、文字回りに赤ベタの特色を乗せた2色刷り。

中は、口絵を含めスミ1色で、クラシカルな雰囲気。書体や、レイアウト、手描きの挿絵などにも、当時の時代の雰囲気を感じる。
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北穂小屋」を最初に建てるまでのいきさつを綴った「山小屋を建てる」、
営業小屋が完成してからの日々を描いた「北穂高に暮らして」、
山で幾度も遭遇した「遭難」のこと、
そして「北アルプス全山縦走」「遠州京丸牡丹を訪ねて」「春の利尻岳」の3編からなる「山旅」、
初版のあとがきにあたる「いま思うこと」 という4部構成。

最初の章、「山小屋を建てる」の冒頭を少し引用してみる。

 あのいまわしい大戦が、何時の間にか『聖戦』の名にすり替えられて、戦争に勝つ為にはどんな手段をも選ばず、一億総戦力のひと駒にすぎなかった多くの人々は、ほとんど自己を喪失して個人的な理想とか抱負、まして自由など求める術はなかった。
 その頃、私は『聖戦』に懐疑的で、戦争にともなう一切の恐怖におびえながら、憑かれたように穂高へ登った。山を愛することは熾烈な戦争の中で、私に許されたたった一つの自由だった。
 そして、通い詰めた北穂高滝谷のとりこになり、その頂上へ山小屋を建てる希いを持った。


「遭難」の章の冒頭も素晴らしい。そして、まるでつい最近書かれたもののようにも感じられる。

 最近は山の遭難が非常に多い。登山人口が急速に増えたので、それにともなって遭難が増えるのも無理がないとよく聞くが、それほど簡単に片付けられる問題ではない。一体どうしたら悲惨な事故が防げるのだろうか。決定的な名案は誰にも打ち出せないだろうが、どうかして悲劇を最小限に喰いとめたいと、山を登る者も、周囲の人々も常に切ないほど願っている。
 何一つ間違いを犯さない人は極く稀か、あるいはそういう人は存在しないかも知れないと同様に、山登りには多かれすくなかれ危険が潜在し、人々は常に危険を犯しているはずである。しかし、登山が自由意志の行為である故に、身辺の危険を最小限にとどめるか、できれば完全に克服することは登山者の責任であり、誇りであると思う。


50年以上前に書かれたものだが、時代が移ろっても、本質は変わらない。

口絵から、著者プロフィール写真。
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たぶん、撮影用にポーズを決めてるんだと思うんだけど…(左手はA0の支点につかまってて、ハンマーはどこを叩こうとしてるのか?)

それにしても、アブミが1段しかない。ガチャもほとんどない。いや、それより、ハーネスがないように見える。ロープを直結びしてた時代か…。この装備で滝谷を登っていたというのがすごい。
「鋲靴が滑るが、クレッターシューズを持って来なかったので裸足になった。足の裏に汗をかいて、滑るので、岩の表面で汗をぬぐいながら登った」というような描写もあって、ひょぇぇぇと身震いしたり。

この頃の人たちって、今のひ弱な都市住民からすると、信じられないような強靭な肉体と精神力を有しているように思う。

本書の中で圧巻なのが、初代北穂小屋の「梁」にする大きな木材を横尾尾根の下から持ち上げたときの下り。
長さ18尺、重さ35貫の1本材を本谷橋から涸沢経由で運び上げるのだが、今の単位に換算すると、長さは5m半、重さは130㎏超え。
はじめは三人がかりで担いでいたのだが、涸沢を過ぎてからの急斜面は、複数で支えるのは危険が大きすぎて、一人で背負うしかないということになったらしい。

「重みが肩だけでなく、体全体にじーんとくる。確かに重い事は重いが、二〇〇メートルや三〇〇メートル歩けない事はなかった」  …すごい。

この歩荷で思い出すのは、大峯開山以来最強の強力と言われる「鬼雅」、こと岡田雅行さん。 釈迦ヶ岳のピークに鎮座するあの巨大な釈迦如来像を運び上げた人。いくつかのパーツに分けて運んだそうだが、一番重い台座部分は134㎏もあり、鬼雅さんはこの仕事を成し遂げたことを一生の誇りにしていたそうだ。

鬼雅さんは身長188cm、体重は120kgもある偉丈夫だったらしい。小山氏がどんな体格だったのか知らないけど、クライマーがそんな巨大なヒトだとは考えにくい。
そして、重いのももちろん大変だけど、長いモノ、もたいへん。足元が不安定な山の急斜面で、5mもの長さのもの運ぶのは、とてつもないことだ。
(極にゃみ的には、こう見えてもツナギ着て作業員、とゆー過去があって、3mの鉄骨を運んでたけど、平らなところでも充分ヤバい)

だから、最初にあの小屋を建てたのは、けた外れの偉業で、たぶん人の力の限界を超えてるレベルの仕事。小山氏のすさまじい情熱に、神様がそっと手をお貸しになったのではないかと思う。
ああ、北穂小屋に行きたくなってきた。今年は雪が早そうな気もするけど、穂高の秋景色、見に行けたらいいなぁ。6月に敗退しとるしなー。

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コメント

いつもながら見事な書評に感服。『穂高を愛して二十年』の対極にあるのが『めざせ!槍ヶ岳 中年山ボーイ&山ガールGO』ですが、この二冊を読むと、エキスパートからビギナーに至るまで “どんなレベルでも楽しめるのが登山の魅力である” ということに改めて気付かされるのではないでしょうか。

投稿: 奥田裕章 | 2018年8月25日 (土) 14:09

ははは… 確かに。

人それぞれ、好みも体力もモチベーションも違いますが、
それぞれに楽しめるのが魅力だと思います。

稀少な本をありがとうございましたー。
ホントによい本でした。

投稿: にゃみ。 | 2018年8月25日 (土) 14:39

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