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「琵琶湖疎水」について

“明治維新が明るく、素晴らしいものであったというのは、支配階級が仕掛けた印象操作によるもの”と、『明治維新という名の洗脳』の著者は述べている。異論もあるだろうが、少なくとも、京都にとっては、けっして“よいできごと”ではなかったと思う。
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日を勘違いして京都へ行ったとき、せっかくなので、蹴上周辺から琵琶湖疎水の施設を改めて見学してみてそう感じた。
 ↑ 蹴上インクライン上部の船溜まり

徳川幕府が倒れ、明治政府へと政権が移行するとき、「焼けて口開く」蛤御門の変で、京の都は街が戦場となって、約3万戸が焼失。東京遷都によって帝は東京へ去ってしまった。人々は意気消沈し、人口は減り、衰退の途へ。
そんな京都を、なんとか立て直そうとしたのが第三代知事、北垣国道氏。国や隣接する県などと粘り強く折衝し、推し進めた一大プロジェクトが「琵琶湖疎水」だった。
 古来“山紫水明”の地で、よい水に恵まれていた京都だが、明治に入って水質が悪化。上水道を整備する必要が生じたこと、殖産興業のために、水力と水運が必要とされたことなどから、琵琶湖から水を引く計画を実施することに。

 琵琶湖から水を引くという壮大なプランは、古くは大堰川・高瀬川の開削を手掛けた豪商・角倉了以が構想していたものの、当時の技術では困難であった。
 実現への道をつけたのが、東京工部大学校(現在の東京大学工学部)の学生だった田辺朔郎氏。
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卒業研究として京都を訪れて調査を行い、卒論『琵琶湖疏水工事の計画』をまとめた。
 この論文は世界的な注目を集め、イギリス土木学会の最高賞であるテルフォード賞を受賞。これによって、卒業と同時に京都府の御用掛に採用され、弱冠21歳の若さで巨大プロジェクト、「琵琶湖疎水」担当に抜擢されたのである。
工事途中で視察のため渡米。マサチューセッツ州ホルヨークでは、ダムや運河の水力利用を、アスペン鉱山では世界初の水力発電所を視察した。それによって、当初予定していた水車動力を、水力発電に計画変更、蹴上に日本初の事業用水力発電所が建設されることとなった。
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蹴上に今も残るレンガ造りの建物が初代の蹴上発電所で、この奥に現在も稼働中の発電施設がある。
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その北側にある「南禅寺船溜まり」。このほとりにある「琵琶湖疎水記念館」で、琵琶湖疎水の歴史や施設について詳しく学ぶことができる。
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蹴上から山裾を通って北上する「疎水分線」は、南禅寺の境内でローマ風のアーチ橋となる。
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その先からさらに北上するが、その川べりの遊歩道が「哲学の道」。銀閣寺前までの間が有名だが、疎水そのものはさらに北へ進み、賀茂川へ合流する。
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南禅寺船溜まりから、岡崎公園の南側・西側を通り、冷泉通りを西へ進む鴨東運河。夷川船溜まりの西側の落差を利用する夷川発電所を経て、鴨川の左岸へ。伏見までつながるのが「第一疎水」。琵琶湖側の取水口から、蹴上までは疎水べりに遊歩道があり、疎水の水路を運航する船もので、機会を見て行ってみたいと思っている。疎水さんぽ、なかなか楽しかった。


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