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『童の神』

本書を手に取ったきっかけが思い出せないのだが、久々に小説を読んでみた。
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「歴史エンタテイメント」との触れ込みで、舞台は平安時代の都の周辺。盗賊袴垂や滝夜叉姫、酒呑童子。魅力あるキャラが跳梁跋扈する。

本書によれば、大江山の鬼が「童子」と呼ばれるのは、みやこ人が彼らのような“まつろわぬ民”を「童」と呼んで(蔑んで)いたから。

極にゃみ的には、本書を読む前から「遊行の民」「化外の民」、あるいは「山の民(川・海の民)」に興味があった。五木寛之さんの『風の王国』がきっかけだったような気がするが、自分自身も現代の化外の民だと自覚している。

そもそも…。
都人(本書では京人)たちは彼らを邪悪なものとして畏れ(かつ蔑んだ)が、大和朝廷が支配体制を確立する前からそこにいて、体制に組み込まれることなく、まつろわぬ民として勢力を保った者たちを、“悪しき者”とするプロパガンダによって、彼らは鬼や妖怪などの、得体のしれない邪悪な存在とされてきたのではないか。

為政者がコントロールできない民=化外のもの=“人ではない存在”。

律令制が確立し、徴税や徴兵のために戸籍が作られたが、そこに属さない芸能者や歩き巫女・高野聖など、遊行の民はいつの時代にもいただろう。三角寛の著作の是非はさておき、漂泊の民「サンカ」も、実在はしたのだろうと思う。

本作は、安倍晴明が空前絶後の凶事と占った日食の日に生まれた「桜暁丸」という特異な容貌の若者を主人公に、都に出没する盗賊・袴垂、妖術使いとされる滝夜叉一党などの“まつろわぬ民”の勢力と、源頼光の四天王、渡辺綱・坂田金時・卜部季武・碓井貞光ら朝廷側の戦いを描いた作品。ストーリー展開も面白く、一気に読了した。

『童の神』
今村翔吾 著
角川春樹事務所 刊
2018年9月 初版発行


「京人は我らを鬼と呼ぶ。土蜘蛛と呼ぶ。そして童(わらわ)と呼び、蔑む。理由などない。己が蔑まれたくないから誰かを貶める」

「差別」というものの根源はまさにそうだろうし、異形のもの、異能のものを畏れる気持ちの裏返しでもあると思う。
(どうでもいいことだが、極にゃみ的には、今まさしく、“異形のもの”である。怖いぞ。)

「山を知らぬ京人の考えそうなことだ」…中略…
「やつらは道あるところが道だと思っている。道なきところに道を生む苦労を知らぬ。人の生き方も同じよ」
山に暮らす者にとってはそこが道だと思えば、木々の僅かな隙間、断崖絶壁、川の中でも道なのだ。それを後に易しく行けるようにするため、大地を均して木々を切り、縄を垂らし、橋を架けているに過ぎない。

平安時代の人であっても、“京人”は、都市化された人々だった。
現代の都市民と同じで、野生を喪失し、イキモノとして脆弱な存在。
鬼や天狗が“異能”なのではなく、都市民が“喪能”したのだろうと思う。

役の行者に代表される修験道の人々を遠目に見た人は「天狗」と思っただろうし、異国から渡ってきて、大江山を本拠とした異能集団のような者たちは「鬼」と呼ばれた。自身が持たない能力を持つ者は、あやかしに違いないという理解は、わからんでもない。本来持っていた能力を、便利な暮らしと引き換えに喪失しただけかもしれないのに。
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「鉞担いだ金太郎」は、頼光の四天王の一人だが、出自は京人ではなく、辺境の足柄山で「熊とすもうをとっていた」と言われる“化外の民”だ。本作品では、体制側にあることに苦悩しつつも、化外の者たちと(自身が持つ化外の能をもって)戦う苦悩が描かれている。

“まつろわぬ民”と言えば思い出されるのが『風の王国』に登場する謎めいた人々。大昔に読んだので、このサイトにレビューを上げてはいないのだが、久々に読み返してみたい気分…
【参考】
★松岡正剛の千夜千冊…ココ!


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